続・虎の雄叫び高らかに 7
準々決勝開始から十数分、既に四試合の内三試合は決着がつき、残すは早生成里乃とレディ・ハーケンの試合のみとなっていた。他の三試合、タイガー、陰念、浅野の試合は実にあっさりと勝負がついたため、観客達の視線は成里乃達に集まっている。
「うう、やっぱり試合は省略されましたノー」
何はともあれ、タイガー無事準決勝に進出である。
そんな哀しい虎の雄叫びとは裏腹に、今も試合を続けている成里乃は息苦しいほどの緊張感に包まれていた。
彼女が横島の家で行っていた修行は霊力そのものを鍛える物が主だった。霊能を教わりたいと思った事がないとは言わない。今も成里乃を見守っているかおりや、他の者達もそうだろう。
だが、レディ・ハーケンと戦ってみて、霊力を鍛える事がいかに重要であるかを知った。
霊能らしい霊能、例の実体化した霊波刀すらも使っていないと言うのに、それでも成里乃の力は彼女に届かない。圧倒的な霊力量の差があるためだ。
「ふー、なかなかねばるわねぇ。他の試合も終わったみたいだし、そろそろ降参しない?」
「……まさか、私はまだ戦えるわ」
そう言いつつも成里乃の息は荒い。霊力を使い過ぎたのか視界は既にぼやけてしまっているが、ズキズキと痛む熱を持った腕がかろうじて彼女の意識を繋ぎとめている状態である。
レディ・ハーケンの放った霊波砲を成里乃は咄嗟に神通扇で防いだ。それは攻防一体の除霊具のはずだが、今は防戦一方を余儀なくされている。身を守るのに精一杯で、攻撃に回す余力がないのだ。
一方、優勢のレディ・ハーケンも濃いめの眉を顰めて少し困った表情をしていた。
負ける気はしない。だが、ここまで食い下がられると生かしたまま試合を終わらせる事が難しい。
GS資格試験は試合中に対戦相手が死んでしまっても事故で済ませてしまうものなのだが、それとは別に、彼女には対戦相手を「殺せない」理由があるのだ。
「仕方ない…わね」
個人的にはどうでも良いのだが、彼女にとって「命令」は絶対である。
レディ・ハーケンは成里乃から視線をはずし、チラリと会場を見回してみる。すると心配そうにこちらを見詰める横島の姿が視界に入った。彼ならば何とかするだろう。
ニヤリとほくそ笑んだレディ・ハーケンはツカツカと無造作に成里乃に歩み寄る。急な動きに驚いた成里乃は神通扇で霊波砲を放ち迎え撃つが、レディ・ハーケンは大胆に開いた着物の胸元で受け止めると、フンと胸を張る動作だけで弾き飛ばしてしまった。艶やかな色白の肌は傷どころか霊波砲に晒された痕跡すら残っていない。
レディ・ハーケンは神通扇を持った腕を掴むと、試合場を囲む結界に向き直る。彼女の視線の先にいるのは横島だ。
成理乃が反応できないでいるうちに空いた手を結界へ押し当てると、気合一閃。なんと、試合場を囲む結界に大穴を開ける。
「イクわよ、王子様に受け止めてもらいなさい♥」
驚いた審判が試合を中断しようとし、成理乃も遅まきながら手を振り解こうとするが、それよりも早くレディ・ハーケンはその細腕で成里乃を持ち上げると、彼女を思い切り試合場の外へと投げ捨てた。真っ直ぐ、壁に激突するコースで。
「早生さんっ!」
それを見ていたかおりが悲鳴のような声を上げて駆け出す。数瞬遅れて雪之丞も駆け出すが、距離があるため間に合いそうにない。位置的に間に合いそうなのはただ一人だ。
「クッ、文珠!」
『柔』の文字を込めた文珠を発動させながら走る横島。これで壁を柔らかくすれば成里乃を受け止める事ができるだろう。しかし、投げられた成里乃は悲鳴も上げずに微動だにしない。おそらく意識を失っているのだろう。あれでは受身を取る事もできまい。
「俺がやるっきゃないんかーっ!!」
横島は覚悟を決めて壁と成里乃の間に飛び込む。自分の体をクッションにして彼女を受け止めるのだ。
「や…やっぱ、メチャ痛…」
全く衰えぬ勢いで飛んでくる成里乃。いかに壁を柔らかくしているとは言え、受け止めた横島も無事では済まない。
そのまま二人は折り重なるようにして、力無く床へと崩れ落ちた。
「審判さん、あれ場外になるわよね?」
「! …しょ、勝者、レディ・ハーケン!」
レディ・ハーケンに促されて慌てて勝利を宣言する審判。その後すぐに教護班を呼んで成里乃達を医務室へと運ぶように指示する。
「は、早生さん〜…よ、横島君〜…? ふぅ〜」
すぐさま駆けつけたのは冥子。しかし、後輩である六女の生徒と数少ない「お友達」である横島の二人が傷付き倒れている姿を見て、顔を青くして倒れてしまう。ショッキングな光景に式神を暴走させなかったのは重畳ではあるが、これでは救護班として役には立たない。
とは言え、冥子当人には二人を助けたい気持ちが満ち溢れているようで、治療用の式神ショウトラだけが懸命に活動を続けている。そうこうしている内に他の救護班の者達も駆けつけ、成里乃を担架で運び出していく。横島の方は、まだ自力で立ち上がるだけの力が残っていたので、よろめきながらもそのままそれに付き添う。
横島用にと用意されていた担架は、結局冥子を運ぶために使われる事となった。今頃観客席では六道理事長と二人でいるエミが、蛇に睨まれたカエルのように脂汗を流していることだろう。
「あー…何と言いますか…」
「ま、結界なんてそれ以上の力を掛けたらパリーンと破れるものなのねー」
実況席では予想外の展開に枚方も言葉を失ってしまっていた。受験者により試合場の結界が破壊される、あってはならない事だ。彼はGS協会の人間であり、長年GS資格試験の実況を続けてきただけに受けた衝撃も大きかった。
逆にヒャクメは部外者であり、オカルトGメンの誇る出力三千マイトの結界車両がパピリオにより破られた事を聞き及んでいたので、暢気なものである。
その後、試合場の結界を張り直すために試験は一時中断となった。
残りの受験者は四人、試合場は資格取得者以外は帰ってしまったため人もまばらとなってしまったが、逆に観客席の方は満席となっていた。
アシュタロスとの戦い以降、一般のマスコミがオカルト業界に注目し、GS資格試験に大勢駆けつけていたと言うのもあるが、近年稀に見る激戦を繰り広げているため、一般の観客、GS資格を取得できなかった受験生の応援も帰らずに固唾を呑んで見守っているためだ。
会場中の視線が自分達に集中する。それはタイガーに多大なプレッシャーを与えた。
元々彼は友人である三人への対抗意識があった。弓家所属のGSとして活躍している雪之丞、GS協会幹部となった唐巣の事務所を任され一人で切り盛りしているピート、そして独り立ちして除霊事務所を構えた横島。彼らと並び立つに恥ずかしくない自分になりたかったのだ。
準決勝に進出した事で、彼はベスト4に残った事となる。この時点で、GS資格試験での成績はあの三人を越えたと言えるだろう。ならばここで「自分にしては上出来」と満足してしまっても良いのではないか、そんな考えが彼の頭を過ぎる。
「うぅ、次の戦いはあの陰念…後は適当に怪我しないように負ければ…」
弱気なことを呟いてチラリと陰念の方に視線を向けると―――
「………」
―――そこには真剣な目をしてレディ・ハーケンを見詰める陰念の姿があった。
彼は諦めていない。誰もが勝てないと諦めているレディ・ハーケンに勝つ事を。
そして、それは同時に「タイガーに勝つつもり」でいる事を意味している。彼がレディ・ハーケンと戦うのは、タイガーと戦う準決勝の後、決勝戦の事なのだから。
「陰念…」
彼の目を見て、タイガーの心で何かに火が付いた。
前回、彼は陰念に敗れてGS資格取得目前で試験に落ちた。はたして、その陰念との戦いとを避けて彼は横島達に胸を張ってGSだと名乗る事ができるだろうか。
タイガーはここに至って覚悟を決めた。
彼等がGS資格試験一位通過、トーナメント優勝を目指すように、自分も優勝を目指す。
「ワッシは…ワッシは…レディ・ハーケンは無理でも、陰念には勝ってみせるんじゃーっ!!」
しかし、まだ少し弱気であった。
「三つ子の魂百まで」と言うが、これでこそタイガーである。
一方、成里乃達が運び込まれた医務室では、慌てて救急車を呼ぼうとする救護班を横島が制していた。成里乃の試験は既に終わったので、霊的治療を施すこともできる。となれば、文珠を使わない理由はない。
「今の手持ちは…三つか」
まず一つ目の文珠で成里乃の治療を、次に二つ目の文珠で横島自身の治療を行う。
「…あれ?」
ここで一つトラブルが発生した。文珠で治療したはずの成里乃が目覚めないのだ。
「な、なんで…」
「それは〜霊力を〜使い過ぎたのよ〜。身体を〜治しても〜霊力は〜回復〜しないわ〜」
「なるほど、って冥子ちゃん起きたの!?」
振り返ると、そこには意識を失っていたはずの冥子が平然と立っていた。
気絶しなれているせいか、回復が早い。慣れとは恐ろしいものである。
「霊力の回復…それなら、この最後の文珠で!」
「それは〜ダメよ〜横島くん〜」
まさか冥子にダメ出しをされるとは思わなかった。
この時の横島はとても悲しそうな表情をしていた事であろう。
とは言え、のほほんとした普段の表情とは裏腹に、知識については名門の名に恥じないものを持っている彼女のことだ。何か理由があるのだろうと、横島は詳しい話を聞いてみる事にする。
すると冥子は、いつも通りの間延びした口調で「霊力の〜回復中に〜他の〜人の〜霊力を〜混ぜちゃ〜いけないのよ〜」と答えた。
現在の成里乃は霊力が枯渇している状態にある。当然、身体、魂がフル稼働して回復に努めており、ここに他人の霊力で手助けしようとすると、その霊力すらも自分の物として取り込んでしまうそうだ。
つまり、成里乃の中に横島が混ざると言う事である。これは下手をすると人格すら書き換えてしまう危険性を孕んでいるらしい。人間一人のマイトを遥かに越えた出力を誇る文珠を使えばなおさらだ。先程三つ子の魂云々と言ったばかりではあるが、この場合はその魂そのものが変質してしまうのである。
「い、いかん! 成里乃ちゃんに俺の性格が混じるなんて、それはいかん!」
冥子の話を聞いて途端にうろたえる横島は成里乃の顔見て、もう一度首を横に振った。
今は閉じられている切れ長の瞳、横島より年下ではあるが、既にクールビューティーの片鱗を見せつつある彼女に横島の性格が混じるとどうなるか。
「ノオォォォォォーッ!!」
想像してみて、思わずシャウトしてしまう。自分自身の事であるにも関わらず、自分の性格の混じった成里乃は彼的にアウトのようだ。変なところで自虐的である。
そして同時に彼は、一番弟子とも言えなくもない人狼族のシロの事を思い出していた。
初めて出会った頃の彼女は男女差も見られない幼児であった。しかし妖刀により重傷を負った彼女に令子と横島の二人でヒーリングを行った結果、急激に成長して今は中学生ぐらいの体格になっている。
思えば、これもシロが人狼族の回復能力を以って、ヒーリングに使われた霊力を取り込んだために起きた現象なのかも知れない。
あの時使われた霊力のほとんどは令子の物であり、横島のは微々たる量であろう。そう考えると、シロは令子の影響を受けてあれだけの急成長を遂げたとも言える。恐るべきは人狼族の回復力である。
思えばアルテミスに憑依されたシロは実に女性的なボディラインを誇っていた。横島はグッと拳を握りしめ、とりあえず性格は令子に似てくれるなと祈るばかりであった。
「霊力が〜枯渇してる〜時は〜、悪霊に〜取り憑かれ〜やすいから〜、もし〜文珠を〜使うなら〜結界を〜張って〜守って〜あげると〜いいと〜思うわ〜」
「なるほどっ! それじゃ…」
冥子に言われて横島は早速『護』の文字を込めて発動させた文珠結界を張り、それを眠る成里乃の胸の上に乗せる。
しかし、冥子の話はまだ終わっていなかった。
「でも〜、それぐらいの〜結界なら〜、救護班の〜道具で〜できるから〜、わざわざ〜文珠を〜使う〜必要は〜ないわよ〜」
「…それを早く言ってくれ」
「え〜、冥子が〜悪いの〜?」
微妙なところである。
何にせよ、横島はこれで手持ちの文珠を使い切ってしまった。
とは言え、成里乃の試験が終わった今、特に文珠を使う必要もないので、横島もそのままベッド脇のパイプ椅子に座って休む事にする。
レディ・ハーケンの事が気になると言えば気になるが、彼女はどこか「危険な悪女系の香りがする」と横島の中で警戒信号が発せられているため、彼は試合を見に行くより、成里乃の側にいる事を選んだのだ。
「あの、早生さんはこちらに…」
そこにおずおずと扉を開けて医務室に入ってきたのはかおり。
彼女は弓家の代表として陰念の試験を見届けなければならない立場にあるのだが、友人の事が心配で、その役目を雪之丞に押し付けてきたらしい。
「横島さん、成里乃さんの方は…」
「怪我の方はもう大丈夫だが、霊力を使い過ぎたみたいだな」
その言葉を聞いて、かおりはなるほどと納得した。彼女自身、幼少時の修行中に似たような状態に陥った経験がある。
冥子はかおりが医務室に入ってくると、入れ替わるように試験会場の方に戻った。準決勝の開始まであと僅かのようだ。
準決勝はタイガー対陰念、そしてレディ・ハーケン対浅野の二試合が同時に行われる。タイガーと陰念の対決も見所は多いだろうが、ここまで来るとオカルトGメンの浅野がどこまでやれるかも楽しみになってくる。
会場はレディ・ハーケンと浅野の試合に注目しているようだ。陰念も注目選手のはずなのだが、そちらの試合に注目している者はあまりいない。タイガーの影の薄さのためであろう。
「悪いが、俺は一位通過しか見てねぇ。前回のように勝たせてもらうぜ!」
「あの頃のワッシとは違うんジャー!」
僧衣姿で剣呑な笑みを浮かべる陰念に対し、タイガーは試合開始前に『獣人変化』を行う事でそれに応える。
そうタイガーにはこれがあるのだ。自己暗示もあって彼の身体能力は密林の王者である虎のレベルまで跳ね上がっている。しかも、霊力のスーツを身に纏っているようなものなので、陰念の得意とする霊波砲も効果が薄い。
白龍GSの代表となって以降魔装術は封印し、弓式除霊術の奥義である水晶観音はまだ会得できていない。『獣人変化』を行ったタイガーは、今の状態の彼には極めて相性の悪い相手と言えるだろう。
厄介だと陰念は舌打ちをする。彼が水晶観音を会得できない原因は、この荒々しい性格にあった。
魔装術と水晶観音、一見したところでは「霊力を鎧にして身に纏う」というよく似た術だが、その実、術としての本質は全く正反対なのだ。己の闘争本能を魔性と化す魔装術に対して、水晶観音は己の心を平静に、明鏡止水の境地に至らせ、仏の心に近付ける事によって己自身も仏に近付くもの。言わば悟りへの道程なのだ。陰念の性格では、明らかに前者の方が相性が良いのは言うまでもない。
実は、弓式除霊術奥義とは悟りへと至る行の事であり、『水晶観音』はその副産物に過ぎない。仏に至り、悟りを開く事こそが、真の極みなのだ。
ただし、『水晶観音』自体は除霊術として極めて有効であるため、本来の奥義とは別のものとして、弓家一門に伝承されている。分家によっては『紅玉明王』、『琥珀天』、『黒曜童子』などと別の名で伝承している場合もあるが、名が違うだけで術としては同じ物である。使用者の霊力に影響され、霊力の鎧の色や性質が変化するのだ。
そして、『獣人変化』は魔装術とも水晶観音とも違うが、霊能としての性質はかなり近いものであると言える。タイガーの影の薄さ故にあまり注目してこなかったが、これならば今までの試合をあっと言う間に終わらせた事も納得がいくと言うものだ。
前回の試験で戦ったタイガーとは違う。そう感じ取った陰念は、この試験で初めて格闘家として構えを取るのだった。
「陰念、マジになったみたい。万年反抗期だったあの子が…成長したものね、感慨深いわ」
隣の試合場では、レディ・ハーケンが陰念達の方を眺めて嬉しそうに頬をほころばせていた。
その表情はまるで母親のそれである。これが本当に今まで圧倒的な実力差で対戦相手をマットに沈めてきた女なのだろうか。浅野は疑問符を浮かべるが、彼女の性格がどうであれ、その実力に変わりない事に気付くと、疑問を頭の隅に追いやって目の前の対戦相手に集中する。
すると、浅野の視線に気付いたのか、レディ・ハーケンが彼の方に向き直りキッと鋭い視線をそちらに向けた。
意志の強そうな太い眉はキリリと様になっているが、垂れ目気味の目では睨んでもどこか愛嬌がある。とにかく美女はどんな表情をしても様になるものだ。浅野は自分を見詰めるレディ・ハーケンを見て、そんな場違いな感想が浮かんでいた。
「「準決勝、開始ッ!!」」
それぞれの試合場にいる二人の審判が同時に試合開始を宣言した。
陰念とタイガーはそれと同時に動いて積極的に肉弾戦を仕掛け、それとは対照的にレディ・ハーケンと浅野は互いに距離を取って仕掛けるチャンスを窺っている。
「フフッ、あたしを警戒してるみたいね。それはあなたの直感なのかしら…それとも、誰かさんのアドバイス?」
その一言で浅野はバッと距離を取って身構えた。
今までの余裕があった態度はどこへやら、明らかに彼の表情には怯えが見えている。
「気付いたわね、あたしの正体に…そこで傷付いた小鳥のように怯えているのは誰なのかしら?」
その声はハスキーながらもどこか甘く、まるで詠うように朗々と流れていく。
そして、レディ・ハーケンの声に反応するように、浅野はビクッ、ビクッと身を震わせ、顔から大量の汗を噴出させていた。顔色も悪い、まるで病人のようだ。
彼にとっての不幸は岸田と同じく未熟であるにも関わらず、黒魔術を修めてしまった事だ。そう、影響が大きいのだ。彼女とは近しい故に。
「そろそろ教えてもらおうかしら…そこにいる貴方は一体誰なのか?」
その言葉に浅野は構えも解いて這いずるように後ずさった。
「オカルトGメンの浅野クン? …フフッ、違うんでしょ、あたしには分かるのよ。だって…」
浅野はもはや顔面蒼白である。大量の汗がなければ死人だと言っても信じてしまうだろう。
レディ・ハーケンは霊波刀を出して浅野に突きつける。尻餅をついて足腰の立たない彼を見下ろす形だ。
そして、彼女は決定的な一言を口にした。
「だって、あたしも貴方と同じ魔族だから…!」
彼女がそれを口にした瞬間、霊波刀を持った腕から強烈な光を発し変わっていく。
光と共に彼女が身に纏う黒い着物が消し飛んで行き、彼女の全員が光に包まれた。
やがて光が納まると、そこには一人の戦乙女が立っていた。いや、『堕ちた戦乙女』と言うべきだろうか。
なびく髪は以前よりも艶やかで、額には二本の大きな角が生えたサークレットを身に着けている。大きく肩が張り出し、腕の露出したプロテクターを埋め込んだような黒のボディスーツに身を包むその姿。隣の試合場で、横目にその姿を見た陰念は「やはりか…」と大きく溜め息をついた。
そう、会場にいる一部の人間、そしてGS協会の係員達は彼女の姿に見覚えがある。
特にこの男、伊達雪之丞にとっては忘れたくても忘れられない姿であった。
「か、かかか、勘九郎か、てめぇはっ!?」
「ご名答よ、雪之丞。お久しぶりね♥」
雪之丞の言葉をあっさりと認めるレディ・ハーケン、もとい勘九郎。
そう、彼の名は鎌田勘九郎。「彼女」ではなく「彼」なのだ。
かつては白龍GSに所属するGS見習いであり、メドーサに魔装術を教わった際に際立った才能を発揮し、魔族へと堕ちた男である。
雪之丞が勘九郎であると断言できなかったのも無理はない。確かに大まかなディティールは勘九郎の魔装術のそれなのだが、顔はレディ・ハーケンのそれであり、身体もラインも女性のそれなのだ。
特に身体のラインがはっきりと出る足の部分は、ボリュームのある脚線美を披露している。しかし、その正体を知る者にとっては、それが何より腹立たしかった。特に今まで彼女の肢体に見とれていた者にとっては尚更であろう。
「て、てめぇ! 何で女になってやがるんだっ!?」
「あら、知らないの? 魔族って言うのはね、人間と違って心、魂がものを言うのよ」
つまり、身体は男でも心は女であった勘九郎は、魔族になった事により『心の姿』、女性に近付いたと言う事だ。
これは同時に人間の肉体の枷を完全に外した事でもあり、彼が完全に魔族として覚醒した事を意味するのだが、その事に気付いているのは、この場では勘九郎本人とヒャクメだけであった。
「やっぱりあたし、魂の髄までオンナだったのねぇ…」
そう言って頬を紅潮させ、甘い溜め息をもらす勘九郎。かつての彼を知らない者にとっては息を呑む妖艶な姿ではあるが、陰念などはそこで殺意を滾らせている。
「………」
逆にレディ・ハーケンを一目見た際に「ママに似ている、美しい…!」と言ってしまった男は、何か大切なものを粉微塵にされてしまったようで、燃え尽きたように真っ白になっていた。
「ま、積もる話は後回しにして、あたしの仕事を済ませちゃいましょ」
そう言って勘九郎は浅野に向き直ると、這って逃げようとしていた彼の目の前に霊波刀を突き立てる。
「逃がしはしないわよ。貴方に試験をめちゃめちゃにされる訳にはいかないの…白龍GSのためにもねっ!」
勘九郎は空いた手を浅野に向けて伸ばし、彼の頭上の虚空を掴んだ。
そのまま引っ張り上げるようとすると、浅野が奇声を発して痙攣し始めた。審判が慌てて止めようとするが、勘九郎は「我慢なさい! 男のコでしょ!」と一喝して浅野の身体を押さえ付ける。
「まったく、素人が黒魔術なんかに手を出すからこんな事になるのよ…」
バリッ、バリッと耳障りな音を立てて何かが浅野から引きずり出されて行くが、周囲の者達の目には何も見えない。
やがて全てを引きずり出したらしく勘九郎は浅野の上から立ち上がると、大きく腕を振り上げて目に見えない何かを床に叩き付けた。
「ゴォガァアァァッ!!」
すると突然床にひびが入り、皆の耳には何者かの叫び声が聞こえてきた。
ひびの入った辺りをよく見てみると、うっすらと何者かの姿が見えてくる。
細いトカゲのような顔と身体、四本の腕を持ち、手首から先だけがやけに大きい。足はなく、おたまじゃくしの尾のような尻尾を振り乱して苦しんでいる。
体色は黒、しかし、所々に銀の縁取りがなされており、銀の部分にはうっすらと血管が浮き出ている。何とも不気味な姿だ。
「レディ・ハーケン選手、これは一体…」
「ば、バカ! 近付いてくるんじゃないわよっ!」
何事が起きているのかと問い質すべく近付いてきた審判に勘九郎は慌てて足払いをかけて倒す。
すると次の瞬間、トカゲのような魔族の長い尾が、彼の頭上を掠めるように通り過ぎて行った。更に魔族は体勢も整えぬままに四本の腕で勘九郎に襲い掛かる。
「クッ…」
足払いで体勢を崩していた勘九郎にはそれを避ける術はなく、交差した両手でそれを受け止める。なるほど、今までの対戦相手を一瞬にして沈めてきただけあってパワーだけは魔族の名に恥じないものがある。
勘九郎の動きが一瞬止まると、魔族は追撃を掛けずに四本の腕と尾を使ってその場から飛び退いた。
知性がほとんどなく、本能のままに動く獣のような魔族だけにその目的はとても分かりやすい。
「陰念、そっちに行ったわ! 気を付けなさいっ!」
あの魔族は人に取り憑き、人の霊力を餌にするタイプの魔族だ。
あえて己の霊力を餌にする事により、魔族と契約を交わして使役する霊能力者がかつてはいたそうだ。浅野もそれを目的にあれを召喚したのかも知れないが、素人同然の未熟者が手を出して良いものではない。
何故なら、あれの欲する霊力はそう簡単に人間が賄える量ではないためだ。
つまり、ずっと浅野に憑依していたあの魔族は今飢えている。
狙いは間違いなくタイガーか陰念のどちらかであろう。この場にいる審判達では話にならない。
魔族は容易く試合場の結界を突き破ると、そのまま隣の試合場へと飛び込んだ。
組み合っていた陰念とタイガーはバッと飛び退いて互いに距離を取り、魔族の方へと向き直る。
「チッ…タイガー、てめぇとの試合は後回しだ!」
陰念の言葉にタイガーはすぐさまコクコクと頷いて承諾した。流石にこの魔族に横槍を入れられながら陰念と戦う事はできない。
四本の腕で床を這いながら、魔族は飛び掛るタイミングを計っているようだ。
シュー、シューと音を立てて陰念、タイガーを交互に見ている。呼吸の音なのだろうか。
この魔族にとって魔族である勘九郎は餌にはならない。魔族は狙いを陰念とタイガーの二人に絞ったようだ。
「ヘッ、試験会場を襲った魔族を倒したとあれば大金星だよな! やってやろうじゃねぇかッ!」
「ワ、ワシもやるときゃやるケンノー!」
対する陰念は端から戦闘態勢でやる気満々であった。
遅れてタイガーも覚悟を決める。
「あのコったら…」
すぐさま助太刀に向かおうとした勘九郎は二人の、特に陰念の表情を見てその足を止めていた。
コスモプロセッサによって復活した際に雪之丞の成長ぶりは身を以って思い知っていたが、なかなかどうして陰念も成長していたようだ。
如何に下級とは言え、あの魔族は人間がなめて掛かれるような者ではない。かつての陰念であれば相手の力量も測れずに突っかかるか、力量に気付いたとしても卑屈に逆切れするかのどちらかだったであろう。
しかし、今は相手の力量を見切った上で、戦う事を選択している。
しかも自分のためではなく、白龍GSのためにだ。
白龍GSに居た頃は、年長者として皆の『母親』代わりでもあった勘九郎だけに、感動もひとしおであった。
「いいわ、とことんやりなさい陰念!」
勘九郎は彼等の戦いを見守る事を決めた。
彼としては、最終的に試験が無事に終わればいいのだ。勘九郎が倒しても、陰念とタイガーが倒しても、魔族が倒されさえすれば、試験は続けられる。
とりあえず、審判、試験官達が無事でなければ話にならない。勘九郎は魔族との戦いを陰念達に任せ、まずは試合場に残った彼等を救助する事から始める事にするのだった。
一方その頃、誰よりも早くこの事に気付かねばならないはずだった女神はと言うと―――
「私は最初っから気付いてたのねー。でも、受験者の霊能バラしちゃいけないって止められてただけなのねー」
―――話の流れに取り残されて、いじけていた。
浅野に取り憑いた魔族の事も、レディ・ハーケンの正体の事も最初から気付いていたにも関わらず、解説の立場上喋る事ができなかっただけにフラストレーションも溜まっていたようだ。
「私は役立たずじゃないのねーっ!」
会場内に女神の哀しくも嘘臭い、必死のアピールが響き渡る。
しかし、皆は試合場の陰念達に注目しており、誰も彼女の声を聞いていなかった。
哀れ、ヒャクメ。
つづく
霊力が枯渇した者に対する霊力供給の問題点。
弓式除霊術奥義、及び『水晶観音』と弓一門分家に関する設定。
レディ・ハーケン(偽名)に関するあれこれ。
これらは全て『黒い手』シリーズ独自の設定です。
原作にこのような設定はありませんので、ご了承ください。
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