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 アン・ヘルシングと賢者の石 4


 戦士公 アロセス、ソロモン先生の教え子、七十二の大悪魔の一柱、三十六の軍団を率いる男爵である。
 炎と見紛うようなたてがみを持つ獅子の頭部を模した兜を被り、禍々しい全身鎧に身を包み、手には獰猛な獣を彷彿とさせる大剣を携えている。その全てが血で染め上げられたかのような真紅で統一されているため、魔界の人々は彼を『炎の獅子』と呼んでいた。

「アロセス……」
 横島は、目の前に立つ赤い鎧に身を包んだ魔族の男の名を呟いた。
「……って、誰?」
 その一言で盛大にずっこける一同。横島は『炎の獅子』が一体何者なのかを知らなかったのだ。
「な、なんで知らないんですか!?」
「ソロモン王の七十二柱の大悪魔。魔王よ、魔王!」
 アンと殉教者部隊の女が立場を越えてツっこみを炸裂させるが、横島にそんな専門的な知識を要求してはいけない。なにせ、彼はその七十二柱の大悪魔の中にアシュタロスが含まれている事すらも知らないのだから。
 魔法界には魔族に関する資料はほとんど残されていないのだが、アンはオカルト学者である父の影響か、この手の知識は豊富にあった。殉教者部隊の女もまた、魔族を敵視しているだけあってそれなりに詳しいようだ。
 しかし、流石の彼女達も『ソロモン王』が魔界では『ソロモン先生』と呼ばれ、七十二柱の大悪魔達はその教え子であるとまでは知らないらしい。
「腕がっ、俺の腕がぁーっ!」
「クッ…やはり魔法界は再び魔界と手を組んでいたのか!」
 片腕を斬り落とされてのたうちまわる細身の男を庇うように大柄な男がアロセスの前に立つが、その顔には冷や汗が流れている。彼等の持つ『殉教者』は人間でも魔族に対抗出来るだけの力を与えるものだが、魔族と一言で言ってもピンからキリまで存在するのだ。
 目の前に居る『炎の獅子』は『魔王級』、すなわち魔界における支配者階級の魔族であって、デタント派である彼は、人間界に与える影響を考慮し、本来人間界においそれと姿を現して良い存在ではない。
 と、ここまで考えて男達は、ここが魔法界であって人間界でない事を思い出した。人間界の常識は通用しない。

「とは言え、こちらに来るために力のほとんどを魔界に置いて来た故、今は米粒程度の力しか使えぬでおじゃるよ」
 そう言って暢気に笑う『炎の獅子』。ピエール之介の時の性格は演技ではなく地のようだが、喋っている内容がとんでもない内容だ。その言葉が事実であれば、この場に居る全員が「米粒」に敵わないのだから。
 アロセスの態度とは裏腹に、横島は気圧されて思わず一歩後ずさってしまう。肌に突き刺さるようにビリビリと感じる圧迫感。この魔族がとてつもなく強いと言う事が理解できた。
 自称「米粒程度」の『炎の獅子』だが、それはあくまで彼自身の感覚であって、明らかに横島が妙神山で修行中に戦っていたベスパよりも強いと思われる。
 しかし、この場においては彼は味方だ。これほど頼もしい援軍はない。
 アンを守りながらどうやって戦おうかと考えていた横島だったが、これなら自分は戦わずに済むかも知れない。知らず知らずの内に、彼の顔に笑みが浮かんでいた。

「では、横島殿に『殉教者部隊』を倒してもらうといたそう」
「はぁっ!?」

 しかし、『炎の獅子』はそんな横島の希望をいとも容易く砕いてしまった。
「いやいやいやいや! お前がやったら一瞬じゃないのか!?」
「いかにも! なれど……」
 魔王級を「お前」呼ばわりする時点でかなり無礼な話なのだが、『炎の獅子』はそれについては気にも留めていない様子だ。横島にツっこみを炸裂させていた殉教者部隊の女は、このままここに居れば、『炎の獅子』が横島を攻撃して、それに巻き込まれてしまうと考え、飛び退いて距離を取った。
 しかし、次の『炎の獅子』の動きは、その場に居た全員にとって予想外のものであった。
 突然アンの肩を掴んで引き寄せたのだ。彼女が目を白黒させていると、何を思ったのか『炎の獅子』はその白い首筋に、手にした真紅の刃を突きつける。
「え? え?」
「おまっ、何やってんだ!?」
「見ての通り人質でごじゃりまする。『人質の命が惜しくば』と言うのでござったかな? こういう場面では」
 怒りの声を上げる横島に対し、『炎の獅子』はピエール之介の時と同じ口調でさらりと言ってのけた。
 本当に横島一人に殉教者部隊の三人と戦わせるつもりのようだ。アンが人質に取られてしまっては、彼としても『炎の獅子』の要求を受け容れるしかない。
「……俺が三人を倒せばアンちゃんは解放するんだな?」
「無論、傷一つなくお返しいたそう」
「………」
 どちらにせよ、殉教者部隊との戦いは避けられなかったのだ。アンが人質に取られた事で二対三から一対三になってしまったが、元より横島は彼女を戦力としては考えていなかった。見方を変えれば、『炎の獅子』に捕らわれた事で彼女の安全は保証されたと言えるかも知れない。
 それに、殉教者部隊三人の内、麻痺の霧を発生させる細身の男は、『炎の獅子』により片腕を切り落とされてほとんど戦闘不能の状態である。
 ここは前向きに考えよう。アンの安全は確保され、殉教者部隊の戦力は落ちた。状況は好転したのだ。
 横島は自らを奮い立たせるようにバシーンと頬を叩いて殉教者部隊の方へと向き直った。
「ああ、言い忘れておったが……」
「なんだよ、まだ何かあんのか?」
「その右腕を使って戦ってくだされ」
「何ぃっ!?」
 思わず右腕を押さえ、驚いた顔をして振り返る横島。人質状態のアンは戦うのに利き手を使うのは当然ではないかと疑問符を浮かべているが、横島にとってそれはタブーである。何故なら、その右腕は妙神山の修行において魔族化し、今は霊力で人間の腕に擬態している状態なのだから。
「右腕って、その、右腕?」
 アンや殉教者部隊にとっては意味不明の言葉だが、『炎の獅子』には通じたようだ。「いかにも」と頷くと、燃える瞳で早くやれと促している。
 横島は確信した。『炎の獅子』は、自分の腕が魔族化している事を知っていると。考えてみれば、彼の腕の魔族化は天界側に対しては猿神(ハヌマン)達によって知られないように働きかけられていたが、魔界側に対しては彼等の力が及ばないのだ。何より、彼等は魔族の同胞が増える事を特に忌避していないので、そもそも隠す必要がない。流石に魔界全土に広く知れ渡っていると言う事はないが、魔界正規軍内においては、彼の魔族化は周知の事実だったのだ。
「………」
 アンを守らなければいけないのは確かなのだが、だからと言って片腕が魔族化している事をここで明かして良いのか。どうするべきか、横島もすぐに答えを出す事は出来ない。
「ひっ……!」
 その時、細身の男は仮面を通して横島を見て、小さく悲鳴のような声を上げてへたり込んでしまった。
 すぐさま女が駆け寄り、彼を助け起こす。すると男は横島を指差して半狂乱になってこう叫んだ。
「ま、魔族だ! その男も魔族だ!」
「なんだとっ!?」
 それを聞いて大柄な男が横島を睨みつける。
 細身の男は『炎の獅子』と横島の会話を聞いて疑念を抱き、霊力の流れを見る事が出来る『殉教者』の仮面で彼の腕を調べたのだろう。そして、霊力で擬態された腕の内に潜む魔族化した腕に気付いてしまったのだ。
「よ、横島……さん。ウソ、ですよね……?」
「………」
 呆然とした表情のアンが問い掛けるが、横島からの返事はなかった。彼は瞳を閉じ、苦悶の表情を浮かべている。
 知られてしまった。これでもう後戻りはできない。順序が逆となったが、これで横島も覚悟を決めた。左手でスーツの右肩部分を掴み、力を込めてそのまま一息に袖部分を引き千切った。そして、指先から肩へと擬態を解いていく。
 同時に横島は自分の中に流れ込んでくる力を感じた。床一面に広がる魔法陣から溢れる力――瘴気だ。やはり、この魔法陣は魔界に通じているのだろう。なるほど、この場所ならば魔族化した腕は、人間界の様に押さえ込まれる事なく力を発揮する事が出来る。
 やがて、夜の闇を固めて作ったような右腕が姿を表した。形状は人間のそれと変わらないが、硬質的でツヤがあるようにも見える表皮を持つそれは、黒曜石を彷彿とさせた。しかし、スムーズな動きで広げた右手を殉教者部隊に突きつける動作を見るに、それが黒曜石製の彫刻などではない事は明らかである。
「あ…ああ……」
 背後から聞こえてくるアンの声。泣いているのだろうか、その声は震えている。どんな表情を浮かべているのか、怖くて振り返る事が出来ない。
「こうなりゃ、ヤケだ! やってやる!」
 しかし、腕の魔族化の事を隠し通せない以上、横島に残された事はアンを守り抜く事だけだ。
 横島は「おんどりゃぁーッ!」と叫びながら、殉教者部隊の先頭に立つ大柄な男に向かって吶喊を開始した。


 一方、『炎の獅子』の登場は地上にも影響を与えていた。
「な、なんですか、この魔力は?」
「地下! 地下に何かいるワケ!」
 地上で戦う者達も、突然地下に現れた膨大な魔力を感知していたのだ。魔鈴は驚きから箒のコントロールを乱し、一瞬エミを振り落としかけるが、エミが魔鈴にしがみ着いた事で事なきを得る。
 膨大な魔力の主が何者であるかは分からないが、秘密の通路を通って地下へと逃げた横島達が危険である事と、一刻も早く彼等の救援に向かわねばならない事は理解出来た。
「とは言え……」
 エミが見下ろす先にいるのは、『殉教者』のリビングアーマー。大混乱の地上において、唯一動じる事なく黙々と攻撃を続けている。判断能力がないと言う事は、動揺するような事もないと言う事だ。機械的に命令を遂行するその姿は、どこか虚ろにも見えた。
「……秘密の通路の入り口ってどこだったワケ?」
「あのリビングアーマーのすぐ後ろ、ですね」
 つまり、リビングアーマーが存在する限り、二人は横島達を助けに行けない。箒を操縦していないエミだけが降りて通路に飛び込むと言う方法も考えられるが、それでリビングアーマーがエミを追い掛け始めれば、それこそ目も当てられない状況に陥ってしまうだろう。何せ、秘密の「通路」なのだ。そんなところでビーム光線のような霊波砲を撃つリビングアーマーに追い掛けられては、無事で済むはずがない。
「ピート、早いとこその男を片付けるワケ…!」
 今の自分達には、逃げ回り、リビングアーマーをここに足止めする事しか出来ない。
 エミは自分の不甲斐無さに唇を噛み締めていた。


 ピートは、殉教者部隊のリーダーにしてバンパイアハーフである鷲鼻の男と死闘を繰り広げていた。
 その最中であるにも関わらず、彼の脳裏には幾つもの疑問が渦巻いている。
 何故、バンパイアハーフである鷲鼻の男が『教会』関係者であるか――ではない。それについてはピートも人の事を言える立場にはないのだから。

「私もバンパイアハーフなのだよ。君とは少々異なるがね」

 男の言葉がぐるぐると頭の中を回っている。自分と異なると言うのは一体どういう意味なのか。
 バンパイアハーフはピート一人だけと言う訳ではないが、自分と異なるタイプのバンパイアハーフなど聞いた事もない。彼の場合、父がバンパイアで母が人間だが、鷲鼻の男はそれが逆だとでも言うのか。そんな単純な問題ではない気がする。
「き、貴様、その顔は…」
「ん? どうかしたかね?」
 ピートは男の顔を見て、驚愕に目を見開いた。
 先程よりも頬が痩け、やつれているように見える。男の方も何事かと自分の顔に手を当て、自分の頬が痩けている事に気付いたようだ。しかし、男は慌てる事なくニヤリと笑みを浮かべる。
「ああ、これなら気にしないでくれたまえ。私にとっては『元に戻る』だけなのだから」
「元に戻る、だと……?」
「ああ、それよりもつまらん水を差さないでくれ。私は君との戦いを楽しみたいのだ。これでも妥協しているのだからね、私を失望させないでくれたまえッ!」
 そう言いつつ男は右の拳を繰り出してくる。ピートが咄嗟にそれを受け止めると、続けて男は左の拳を放つが、ピートはそれも受け止めた。
「……これはッ!」
 この時、ピートは男の左右の腕から感じられる力の違いに気付いた。
 男の右腕はバンパイアの魔力を放ち、そして左腕は人間の霊力を放っているのだ。確かにこれは違う。身体の中で二つの力が混在しているピートと違い、彼の力は左右の腕でくっきりと分かれている。
 ピートは掴んだ両腕を突き放し、目の前の胸板目掛けて掌底を放つ。左右の腕の中心部分なのだから、そこには魔力と霊力が混在していると言うピートの考えに反し、掌が触れる部分から感じられる力は人間の霊力のみであった。
 つまり、男は左腕から身体にかけては人間の霊力を放ち、右腕はバンパイアの魔力を放っている事になる。なるほど、これは確かにピートとは異なるバンパイアハーフだ。
「貴様! 移植したのか、バンパイアの右腕をッ!」
「………」
 ピートの叫びと同時に、鷲鼻の男がピタリとその動きを止めた。
 そして男は肯定も否定もせずに、何かが切れたかのように大声で笑い始める。
「ククククク……ハーッハッハッハッ! その通りだよ、ピート君! よく分かったじゃないか、ピート君! しかし! やはり君は! 私の宿敵には! あと一歩及ばないっ!!」
「宿敵、だと……?」
 その狂ったかのような声は、ピートの言葉を肯定するものであった。つまり、鷲鼻の男は元々人間で、パンパイアの右腕を移植する事で、バンパイアとしての力を手に入れた人間、すなわちバンパイアハーフになったのだ。これで鷲鼻の男の言う「ピートとは異なるバンパイアハーフ」の謎は解けた。
「なんだ、この違和感は……?」
 しかし、ピートの中に渦巻く違和感はまだ消えない。
 考えてみれば、これまでの鷲鼻の男の言動はどこかおかしかった。
 そして、ピートは鷲鼻の男に何か懐かしいものを感じていた。しかも、それはどんどん強まっている。
「ピート君、戦いに集中してくれないかね? 最早宿敵のいなくなった世界に生きる私にとって、君との戦いは、これ以上とない娯楽なのだから」
「そ、そうか!」
 胸をもやもやとさせる違和感の正体にピートは気付いた。
 そう、違和感は、『殉教者部隊のリーダー』と『鷲鼻の男』をイコールで結び付ける事により発生しているのだ。
 『殉教者部隊』は『教会』に仕える神族過激派側の信徒達だ。すなわち、『教会』に対し、絶対的な忠誠を誓っているものである。しかし、目の前の男はどうだ。魔法使い達を殲滅する殉教者部隊の目的よりも、ピートと戦う事に拘っているのではないだろうか。
 『殉教者』のリビングアーマーや、部下の使い方についてもそうだ。有利に事を進めようとするなら、他に幾らでもやり様はあったはず。にも関わらず、男はピートと一対一で戦えるようにお膳立てしている。
 うぬぼれなどではなく、鷲鼻の男はピートと戦う事に拘わっている。しかも、一対一での決闘としてだ。そう考えると、男がこうなるように状況をコントロールしていたと言う考えが、現在の状況にしっくりと当て嵌まっている事に気付く事が出来た。
 そう、鷲鼻の男は『教会』の命令とは異なる目的を持って動いている。そして、それは『殉教者部隊』として相応しいものとは言い難い。
「貴様は『教会』に対し、忠誠を誓っていない!」
「ほぅ……続けたまえ」
 鷲鼻の男は屋根の上で直立不動の体勢のまま腕を組み、興味深そうにピートの推理を聞いている。
「いや、それは正確じゃないな。そんな者に対し、『教会』が『バンパイアの右腕の移植』などするはずがない」
「ならば、私は何だと言うのかね、ピート君」
「貴様はその右腕だ! 右腕のバンパイアが人間の身体を乗ったのだろうっ!」
「フッ……フハハハハハハッ!」
「何がおかしいッ!」
 ピートの言葉に弾かれるように鷲鼻の男が笑い出した。ピートの推理は当たっていたのだろう。今更隠すつもりもないようだ。それどころか、彼が正しい推理をした事を喜んでいるようにさえ見える。
「だが、あと一歩……もう一歩足りない。ピート君、再度問おう。私は何だと言うのかね?」
「貴様は……」
 ここまで来れば、後は簡単だ。ピートの脳裏にかつての、百年ほど前の記憶が蘇ってくる。
 知性を感じさせる広い額に、猛禽類を彷彿とさせる鷲鼻に細い顎。そして今は頬が痩け、目は窪んでいるかのように奥まって、目元に濃い影を生み出している。
 その顔には見覚えがあった。かつてピートはこの男と出会った事がある。
「貴様は、モリアーティー。ホームズさんの宿敵、『犯罪界のナポレオン』モリアーティー教授だっ!」
「……その通りだよ。久しぶりだねぇ、ピート君」
 否定されるかと思いきや、意外にもあっさりと肯定の返事が返ってくる。静かに微笑む鷲鼻の男の顔は、かつてのモリアーティーの顔そのものであった。

 1891年、世界一の名探偵と謳われたシャーロック・ホームズは、宿敵モリアーティー教授と共にライヘンバッハの滝へと消えた。後の研究者達が『大空白期』と呼ぶ三年間の始まりである。
 その頃、吸血鬼ファミリーの若き首領(ドン)として活躍していたピートは、モリアーティーの犯罪組織に捕らわれていた遠縁の少女、エリス・ブラドーを助けようとして、逆に捕らわれの身になってしまっていた。
 ピートが捕らえられた際、彼によって逃がされたエリスが、滝壷に落ちて即死状態だったホームズをバンパイアにする事で蘇生させ、モリアーティーは、ピートの血の力で自らをバンパイアとする事に成功する。
 そして、バンパイア化したホームズとモリアーティーの二人により、歴史の表舞台で語られる事のない最後の戦いが繰り広げられたのだ。
 この時、モリアーティーは特定の手段でしか葬る事の出来ないバンパイアの不死の身体を利用し、自らの右腕を巨大な杭撃ち機を内蔵した義手に取り替えていた。目の前に立つあの頃と変わらぬ顔をしたモリアーティーの右腕は、その腕なのだろう。
「あの後、遺された私の右腕は『教会』によって回収、保管されていたようだ。再び現世に目覚めたのは何年前だったかな?」
 どこか懐かしそうな目で遠くを見詰めるモリアーティー。彼にしてみれば、宿敵であるホームズのいない時代に蘇ったところで張り合いがなかったのだろう。しかも、移植された当時から目覚めていても、身体の主導権はベースの人間の方に握られており、意識はあっても何も出来ない状態だったのだから、尚更である。
「こうして身体を完全に乗っ取るまで数年掛かったぞ」
 身体を乗っ取った今でもモリアーティーが『殉教者部隊』にいるのは、ベースの人間の目を通して今の時代を見続けて学習し、犯罪組織を再建するにも、『教会』を隠れ蓑にした方が良いと考えたためである。
「あの時、私とホームズ君の戦いに横槍を入れてくれたのは君だったね、ピート君」
「……ああ、覚えている」
 あの時と言うのは百年前のホームズとモリアーティーの最後の戦いの事だ。
 モリアーティーの義手の杭撃ち機により窮地に陥ったホームズを助けるために、ピートは霧化をして義手内に入り込み暴発させた。その隙を突いてホームズは逆にモリアーティーの心臓に杭を叩き込み、彼等の最後の戦いは幕を閉じる事になる。
「ホームズ君は既に亡く、今こうして蘇った私と君が相対している。運命的だと思わないかね」
「そんなふざけた運命になど同意はできない……が、今ここで僕達が戦わなければならない事については全面的に同意するッ!」
「よかろう、ならば百年前の続きを始めるとしよう! 紳士的にね……!」
 その言葉を皮切りに死闘は再開され、両者は苛烈な空中戦を展開し始め、モリアーティーは腹の底から笑い声を上げながらピートと共に霊波砲とダンピールフラッシュを撃ち合うドッグファイトを繰り広げる。
 対するピートは真剣な表情でモリアーティーを睨みつけている。彼がバンパイア化したのはピートの血の力によるものだ。だからこそ、ピートはその手でモリアーティーを再び塵にしてやらねばならない。彼の心の中は今、マグマの如く熱く滾る使命感で燃え盛っていた。


 ピートとモリアーティーが空中戦を開始したのとほぼ同時に、地下でも横島と殉教者部隊の戦いが始まっていた。
 横島に対する殉教者部隊は三人。内一人の細身の男は、霊力の流れを探る『殉教者』の仮面は健在だが、相手を麻痺させる霧を発生させる『殉教者』のガントレットを身に着けた腕を斬り落とされ、ほとんど戦う事が出来ない状態のため、実質二人と言って良いだろう。
 大柄な男は両腕に装着したガントレットから大砲のような霊波砲を撃つ事が出来、女は両腕のガントレットを用いて、相手を弾き返す障壁を張る事が出来る。
 出来る事ならば女性とは戦いたくない横島だが、こればかりは仕方あるまい。アンを見捨てるか、女性と戦うかの二者択一なのだ。そして、前者を選んだところで殉教者部隊の女が共闘させてくれるはずもなく、障壁に弾き返されてしまうのがオチだろう。何よりそれは、なけなしの良心が痛過ぎる選択である。
 それに、『炎の獅子』は戦え、倒せとは言ったが、殺せとは言っていない。何とかして女の防御を掻い潜って、男の『殉教者』を使えなくしてしまえは、彼等に成す術はなくなってしまう。
 狙いは大柄な男の腕だ。横島は黒に染まる右の拳を握り締めて駆け出した。
 まずは左手から出現させたサイキックソーサーを、男を庇うように前に出た女目掛けて投げつける。女は障壁を張り、サイキックソーサーはそれに激突して爆煙を発生させる。
 横島は迷う事なく煙の中に突っ込み、右手に『栄光の手(ハンズ・オブ・グローリー)』を発生させて、一気に男に近付こうとする。しかし―――

「出ないっ!?」

―――何故か右手から『栄光の手』が出現せずに、横島はそのまま男の脇を駆け抜けてしまった。
 試しに左手に『栄光の手』を出現させようとすると、あっさりと左手から伸びる霊波刀。逆に右手でサイキックソーサーを作ろうとしても、どうにも上手くいかない。まるで、霊力がろくに使えなかったあの頃に戻ったかのようだ。
「な、なんで?」
「横島殿〜。言い忘れていたでござるが、霊力を使って擬態していない状態では、その右腕、魔力ばかりで霊力が通っておりませぬぞ〜!」
「そう言う事は先に言えーーーっ!!」
 どうやら右腕が魔族化して以来、横島の右腕は霊力が使えない状態になっていたようだ。人間の腕に擬態するために、その腕を身体から伸ばした霊力が膜のようになって包んでいるのだが、今までは無意識の内にその擬態用の霊力を用いて霊能を行使していたらしい。試しに文珠を出そうとしても、やはり右手からは出す事が出来なかった。
「どーしろって言うんじゃーっ!」
「霊力がなければ、魔力を使えば良いではおじゃりませぬか。早くなさいませ」
「使った事ないから分からんわーーーっ!!」
「その言葉、嘘偽りはあらぬでやんすか〜?」
 横島が絶叫しても『炎の獅子』はどこ吹く風だ。そっぽを向いて口笛を吹いている。
「食らえ、魔族めッ!」
「どわっ!?」
 そうこうしている内に男の『殉教者』の充填が完了してしまったらしい。大口径の霊波砲が横島に襲い掛かり、彼は咄嗟に飛び退く事でそれを回避した。
 男は疑問符を浮かべる。横島が避けた事ではなく、霊波砲の威力が落ちている事に。
 彼は知らない事だったが、現在この地下空間は『炎の獅子』が魔法陣を開いたため、そこから溢れ出る瘴気に満ちているのだ。そのため、横島の魔族化した腕の力が増大しているのと同時に、人間の霊力や、天使の力である『殉教者』はその力が抑え込まれてしまっている。
 彼等も必死なのだろう。横島にとって『炎の獅子』は味方とは言えないが、敵ではない。しかし、殉教者部隊にとっては明らかな敵である。しかも、絶対に勝てないであろう相手だ。せめて横島だけでも葬り、何としてもこの場を切り抜ければならない。彼らは死に物狂いであり、横島は孤立無援状態であった。
「え〜っと、魔力、魔力……」
 そう呟いてみても、急に出来るようなものではない。こうしている間にも男は霊波砲の充填を完了させてしまう。横島はろくに魔力を引き出す事も出来ないまま「コンチクショー!」と叫びながら男に向かって駆け出す。

「無理っ!」

 そして、一分も経たない間に黒焦げになって頭から煙を燻らせながら戻って来た横島は、『炎の獅子』に向かって一言、こう言い放った。
 擬態に回していた霊力も自由に使えるようになった事で、今までよりも強くなっている事は確かなのだが、魔族化した利き腕で霊力を使う事が出来ない事が、これほど不便だとは思わなかった。
 左手は今まで通り霊力が使えるのだが、サイキックソーサーを投げるにしても、『栄光の手』を振り回すにしても、やはり利き腕には敵わないだろう。特に霊波刀については、横島も二刀流の使い手ではないのだ。文字通り振り回すしか出来ない。
 何より、人間の霊力だけでは『殉教者』と力比べしたところで押し負けてしまう。やはり、天使と同等の力を持つ『殉教者』に対抗するには、この瘴気の中で魔族化した腕を使うしかないだろう。
  「お前、魔族だろ。コツ教えてくれよ!」
「ふむ……」
 いかに元がピエール之介だと言っても、その正体は魔王級。それを相手にこのような態度を取れる横島に一同は驚いた様子だったが、これは彼が無知なためだ。
 『炎の獅子』も、やはり横島の態度についてはあまり気にしていないようであった。フム、と天を仰いで考えている。
「古人曰く……」
「古人曰く?」
「習うより、慣れよ」
 言うやいなや、『炎の獅子』は剣の切っ先を横島の襟に引っ掛けてひょいと持ち上げると、そのまま殉教者部隊に向けて放り投げてしまった。
「のわーーーっ!?」
 当然、横島を放り投げるのに剣を使ったと言う事は、アンの首筋から刃が離されたと言う事だ。なんとか抜け出せないかともがくが、全身鎧に身を包む腕にがっしりと捕らえられ、抜け出す事ができない。
 『炎の獅子』は、そんなアンの抵抗を気にも留めずに話を進めた。
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とし、人間は我が子を捨ててまた拾うでござるよ」
「それは何か違うだろーっ!」
 ツっこみも虚しく、横島と殉教者の距離はどんどん縮まっていく。大柄な男はその姿を見て笑みを浮かべ、ガントレットの砲門を横島の方へと向けた。充填が完了したのだ。今の横島は落下の最中であるため、ろくに身動きが取れない。左手で文珠を出して防ごうかとも考えたが、あの大砲のような霊波砲に対し、文珠の障壁で対抗できるのかと疑念が浮かぶ。そのために行動が数秒遅れてしまい、気付いた時には霊波砲が目前まで迫っていた。これでは今から文珠を使っても間に合わない。
「うわあぁぁぁっ!」
「よ、横島さん!」
 咄嗟に腕を交差して身を守ろうとする横島。茫然自失の状態で眺めていたアンも、弾かれたように身を乗り出して、彼の身を案じその名を叫ぶ。
 その瞬間、横島の右腕から闇の色をした炎が噴き上がり、その腕を包み込んだ。霊波砲はその炎に触れると弾かれるように霧散していってしまう。
「なにぃ!?」
 驚愕の声を上げる大柄な男、まさか、防がれるとは思っていなかった女の方も驚いて口をパクパクとさせている。
 そして横島は無事着地し、呆けた表情で自分の右腕を見詰めていた。
「あ、そいや俺、魔力使った事あったわ……」
 確かに横島は魔力を使った事がある。たった今思い出した。いや、気付いたと言うべきだろうか。
 今、右腕から噴出した黒い炎、それは妙神山での修行における最終段階、ベスパとの戦いにおいて繰り出した最後の一撃が纏っていたものと同一のものなのだ。考えてみれば、当時は気付いていなかったが、最後の一撃を繰り出した時点で、横島の右腕は魔族化していたのだ。当然、擬態などしていない。その状態では霊力が使えないのだとすれば、無意識の内に魔力を使っていたと言う事なのだろう。その頃はまだ彼の中に居たルシオラが助けてくれた可能性もある。何にせよ、そのおかげで、横島の魂に魔力を使う回路が出来ていた事は間違いあるまい。
「サイキックソーサーも、『栄光の手』も使えないけど、戦う事は出来るみたいだな」
 不敵な笑みを浮かべて立ち上がる横島。
 その右腕には黒い炎と言う形で噴き出る魔力が、陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。

 その姿を目を細めて見守る者がいた。『炎の獅子』その人である。
「目覚めたようでござるな……まったく、本来ならば拙者が動く場面ではないと言うのに」
 その呟きを聞き届け、ハッと顔を上げるアン。しかし、『炎の獅子』は彼女には目もくれずに横島を見詰めていた。その燃える瞳が優しげに見えるのは、アンの気のせいだろうか。
「貴方は、誰かの命令でこんな事を……?」
「………」
 『炎の獅子』は一瞬アンに視線を向けたが、すぐに横島の方に視線を戻してしまう。
 アンは待ったが、彼が彼女の問いに答える事はなかった。



つづく




あとがき
 繰り返しとなりますが、魔法学校について。
 モデルは存在します。しかし、『黒い手』シリーズ本編独自の設定と組み合わせて書かれておりますので、モデルになった特定の学校とはあくまでも別の学校であると言う事をここに明言しておきます。
 『殉教者』に関する設定、アロセスに関する設定も『黒い手』シリーズ独自のものです。
 更に、今更の話ではありますが、横島の魔族化した『黒い手』も、『黒い手』シリーズ独自の設定です。

 そして、シャーロック・ホームズとモリアーティー教授については、『(有)椎名大百貨店』に収録されている『GSホームズ 極楽大作戦!! 血を吸う探偵』を原作としております。
 名前だけ登場している「エリス・ブラドー」と言うのも、これに登場しているキャラです。
 モリアーティーの教授の右腕が残っているかについては、原作では言及されていない事なので、『黒い手』シリーズでは残っていると言う事にしました。身体を乗っ取ることも含めこの右腕については『黒い手』シリーズ独自の設定で書いております。

 また、『黒い手』シリーズにおいては、あくまで『GSホームズ』のシリーズを原作とし、この二人を歴史上の実在の人物として扱っております。推理小説『シャーロック・ホームズ』のシリーズとは直接には関係がありません。ご了承下さい。

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