麻帆良女子寮に、六道女学院除霊科、通称『六女』の入学案内のパンフレットを手に、いや、頭の上に乗せてバランスを取りつつ器用に悩む少女、神楽坂アスナの姿があった。
あやかは横島についても調べたようで、彼の事務所が六女の近くにあることを掴んでいた。その事を告げた時点では、アスナも六女入学に乗り気で今にも小躍りしそうな様子であったが、今は何故かあの様子である。
彼女が思い悩む理由は、その場所にあった。
「東京、か…」
言うまでもない事だが、六女は東京の学校だ。横島の事務所も東京、しかも六女にほど近い場所にあるのでそれは良い。しかし、アスナが進学するとなると、それはすなわち、彼女が子供の頃から過ごしてきた麻帆良から離れると言う事なのだ。
アスナは思わずあやかの顔を見た。
彼女の事だ、アスナが東京に行けばせいせいする――なんて事は欠片も考えてはいないだろう。純粋にアスナの力になろうとパンフレットを手配したに違いない。付き合いの長いアスナには手に取るように分かってしまう。
「あ〜…とりあえず、お風呂入ってくるわ」
どんな顔をすればいいか分からないアスナは、とりあえず「お風呂に入って来る」とその場を離れる事にした。
部屋にはシャワールームがあり、雨に濡れて帰って来た日などはそこでシャワーを浴びて済ませる事が多いのだが、今日はあえて大浴場まで足を伸ばす事にする。
普段ならば誰もいない時間帯だが、今日は雨だったため、同じように入浴している者もいるだろう。
部屋を出ようとドアノブに手を掛けると、背後から木乃香とあやかの会話が聞こえてきた。
「え、那波さんと村上さん、今日は帰ってきいひんの?」
「ええ、先程夏美さんから電話が掛かってきて」
「そんなら、今日はいいんちょもウチでごはん食べてかへん?」
「そうね…それなら、お言葉に甘えて、ご相伴に預かろうかしら」
今のアスナがあやかと顔を合わせ辛い事を知ってか知らずか、木乃香はあやかを引き止めるつもりらしい。彼女らしい気遣いだが、アスナにしてみれば困ったものである。
このまま誰か友人の部屋、或いは外で夕食を済ませようなど、そうは問屋、もとい木乃香が卸さない。とりあえず、湯船に浸かってゆっくりと考えを整理しよう。アスナは着替えとバスタオルを手に大浴場へと向かった。
アスナが廊下を駆けていく。その真上では、天井裏にへばりつくようにして、三つの軟体の塊が潜んでいた。
あのコートの男の足元に居た者達である。所謂『スライム』と呼ばれる魔物のようだ。
「あの犬っコロはいないみたいだナ」
「肝心のネギ・スプリングフィールドも、まだ帰宅してないようデス」
「…神楽坂アスナは、大浴場に向かったものと思われまス」
そう言いながら三体は渦巻きながら盛り上っていく、いや立ち上がっていく。
それらは徐々に形を整えていき、やがてそれぞれが幼い少女の姿となった。
「ターゲットだけで終わらせるのは、つまんないよナ!」
髪を二つに結った、強気そうなツリ目の少女が言う。彼女の名は「すらむぃ」、ただ任務を遂行するだけではつまらないと言う少女は、かなり悪戯好きな性格をしているらしい。
「伯爵はネギ・スプリングフィールドを本気にさせるために、人質を捕まえておくようにと言ってマス」
ネコのような帽子を被り、メガネを掛けた少女は、伯爵――すなわち、彼女達の主であるコートの男の命令を真面目に遂行しようと考えているようだ。彼女の名は「あめ子」、スライムにも個性があるようで、すらむぃに比べて幾分真面目なのが見て取れる。
「……人質なら、ネギ・スプリングフィールドの教え子が有効カト……」
最後にポツリと口を開いたのは、長い髪を床に這わせた少女だった。彼女の名は「ぷりん」、他の二体に比べて随分とおとなしい性格のようだ。
実に個性的な三体である。『スライム』と言うのもあくまで種族の名前、様々な個性を持った者が存在するあたりは『人間』と変わらないと言う事だろうか。
「なるほどっ! 神楽坂アスナの周りにいるヤツを捕まえればいいんだな!」
「そうですね。まずは部屋に居る三人、それに大浴場で神楽坂アスナを監視していれば他にも見つかるでしょう」
途端にすらむぃはやる気を出した。あめ子も良い考えだと思ったのか、その気になっている。似たような反応を見せる二体だが、その方向性は大きく異なっていた。
人質を捕らえるならば任務だ、その過程で多少遊んでも問題はない。そう、真面目なあめ子と違って、すらむぃは任務にかこ付けて遊ぶのが楽しみでしょうがないのだ。
「ならば、部屋の三人は私が…」
提案者であるぷりんは単独行動を申し出た。すらむぃの考えなどお見通しのようで、彼女の遊びに巻き込まれまいと考えているのだろう。
すると、すらむぃはすぐさま了承した。水に近い身体を持つ彼女達は、水のある所での活動は十八番であるため、その分すらむぃにとっても大浴場は遊びやすい場所だ。ぷりんもそれを承知しているからこそ大浴場側を彼女に任せたのであり、そう言う意味では、すらむぃは見事にぷりんに乗せられていた。あめ子もその事に気付いているようでクスクスと笑っている。
彼女達が不意打ちすれば、人間を捕らえる事など容易い。三体一緒に行動する事が非効率的である事は確かであるため、一行はそのまま二手に別れて人質にする者達を集める事にした。
ぷりんは部屋にいる木乃香達を、すらむぃとあめ子はアスナを追跡し、大浴場でアスナとその周囲の人間達をまとめて捕らえるために。
「ふむ…ネギ君がいないのならば、今は私が動くまでもないかな」
その頃、女子寮の屋上では『伯爵』と呼ばれたコートの男が、雨に打たれている事を気にも留めずに佇んでいた。
彼の名はヘルマン。ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン。横島達が麻帆男寮で『封魔の瓶(ラゲーナ・シグナートーリア)』を見て察したように、彼はれっきとした魔族である。
彼は、ネギがまだ帰ってきていないため、今はまだスライム達に全てを任せて高みの見物を決め込むつもりのようだ。ローブの男はネギ、横島、小太郎、そしてアスナをターゲットとしているが、ヘルマン個人としては、あくまで狙いはネギだけと言う事だろう。
「さて、お嬢さん達には悪いが、少々私の遊びに付き合っていただこうか」
唇の端を吊り上げて、ニヤリと笑みを浮かべるヘルマン。麻帆男寮をパイパーが襲撃したように、この女子寮もまた戦場になろうとしていた。
見習GSアスナ極楽大作戦! FILE.47
アスナが大浴場に到着すると、やはりそこにはクラスメイトの姿がちらほらと見えた。皆帰り道で雨に濡れたらしく、一足早い入浴タイムである。
「あれ、アスナじゃん」
「早いねー、今日は横島さんと一緒じゃなかったの?」
脱衣場に入ると、クラスメイトの二人が声を掛けてきた。柿崎美砂と釘宮円の二人だ。普段はこれに桜子を加えた三人でいる事が多いのだが、聞いてみると彼女は今、さよと一緒に部屋にいるそうだ。超人的な強運を誇る彼女は、帰り道で雨に濡れる事もなかったのだろう。
「あ、あはは、今日はちょっとねー」
何故かアスナは顔を引きつらせている。それもそのはずだ、最近の彼女はこの二人を苦手としていた。
彼女達は横島の事を何かと話題にしたがるのだが、実際にアスナが修行している所を見学に来た事は一度もない。横島ともさほど親しいわけでもないためか、二人は横島の事を「年上の彼氏」と認識している節がある。
全くの的外れであればアスナも軽く受け流していただろうが、当たらずとも遠からずと言うのが本当の所だ。こそばゆいやら恥ずかしいやら、アスナはその話題に触れる事を極力避けているのだが、それが全く通用しないのが他ならぬこの二人なのだ。円は比較的アスナが除霊助手である事を理解している様子なのだが、それ以上に恋愛話に興味津々であり、二人揃って何かと横島について聞いてくる。
そんなにしつこく聞かれると、それならば直接会いに行けと言いたくもなるが、アスナはそれをぐっと堪えていた。ウェイビーなロングヘアをなびかせる美砂は大人びたある種の色っぽさを持っており、ショートカットの円は落ち着いたしっかり者で、二人に共通している事は、アスナから見てお姉さん的な雰囲気を醸し出していると言う事だ。彼女達を横島に紹介すればどうなるかは火を見るよりも明らかであろう。
「おおー、アスナ! 今日はやぱり休みだたアルナ」
その時、背後から声を掛けられた。振り返ってみると、そこには濡れた髪を下ろし、いつもとは少し違う雰囲気の古菲の姿がある。
彼女は今日、ネギに会いに行っていたアスナよりも一足先に世界樹前広場に向かっていたらしく、そこで一人待ちながら瞑想している最中に雨が降ってきてしまったそうだ。
しかも、傘を持っていなかったため、つい先程ずぶ濡れになって帰ってきたとの事。
流石は古菲と言うべきか、髪こそは濡れてしんなりとしているが、雰囲気が違うのは見た目だけ。当の本人はいつもと変わらず元気一杯であった。
「さぁさぁ、早くあったまりましょ♪」
渡りに船とばかりに話を打ち切り、古菲の背を押してアスナは女子寮が誇る大浴場『涼風』へ入って行く。美砂と円は少々物足りない様子であったが、元々は入浴するためにここに来たのだから、二人もアスナ達の後に続いた。
各部屋にシャワールームがある寮にわざわざ造られているだけあって、中は相当広く、熱帯の樹木まで植えられており、さながら『ジャングル風呂』と言ったところだ。部屋のシャワールームではなく、こちらを愛用する者が多いのも頷ける話である。
「そう言えば、楓と真名が二人で出掛けたそだが、何か聞いてるアルか?」
「え? そうなの?」
楓と真名と言えば、京都での戦いにおいて常人離れした実力を垣間見せた二人だ。
横島も学園長から緊急の用件を頼まれたと聞く。この三人が揃って動いていると言う事は、やはり魔法使い関係の何かが起こっているに違いない。横島も、ネギも、アスナにその事を教えないのは、やはりまだ彼女が素人の域を抜け出せていないと言う事だろう。その事に思い至ったアスナは、むぅっと頬を膨らませた。
「あ、おかえり〜」
中に入ると、更に大勢のクラスメイト達の姿があった。風香、史伽にまき絵、裕奈、アキラ、亜子の運動部の面々も居る。少し離れたところに夕映、ハルナ、それと長谷川千雨が。しかし、普段ならば夕映達と一緒に居るのどかの姿が見えなかった。もしかしたら、彼女だけはネギと一緒に居るのかも知れない。
3年A組がホームルームを終えるタイミングが悪かったのか、他の学年、クラスの者達の姿はまばらだ。皆数人のグループで浴場内に散り散りになっており、入り口付近は3年A組の生徒が占拠している状態だ。
それでも何の問題もないぐらいに、この大浴場『涼風』は広かった。つくづく麻帆男寮とは規模と設備が違う。横島達が聞けば羨ましがることしきりであろう。横島だけは別の意味で興奮していたかも知れないが。
「結構、集まったわねぇ」
集まったと言うのは、3年A組のクラスメイトの事だ。
「ここにいない方が少ないんじゃない?」
「木乃香と刹那さんは部屋に…い、いいんちょも居るわ」
「桜子も部屋よ、さよちゃんと朝倉が遊びに来てた」
帰宅が確認されているのはここまでだ。後の面々はまだ寮に戻っていないようだ。
楓と真名は、古菲の言う通り出掛けており、千鶴と夏美が買い物に行く事は何人かが聞き及んでいた。
しかし、千鶴達が現在麻帆男寮に居る事までは、連絡を受けたあやか含めて誰一人として知る由もなかった。連絡をした夏美が男子寮に居るなど恥ずかしいと、その事を伏せたためだ。
「超一味はお料理研究会の方かしら?」
「文化部は雨でも休みにはならないしね〜」
「お前らだって体育館内の部活だろーが」
「ちうちゃんったら、ツっこみキツイね〜」
超を始めとする『超包子(チャオパオズ)』の面々は、今日も新商品の開発に勤しんでいるらしい。学園祭が近いためであろう。学祭長者である彼女としては、今年の学園祭も稼ぎ時である。そのための準備は入念にと言ったところだろうか。
修学旅行を通じて仲良くなったのか、あれ以降ザジ・レイニーデイは超や『超包子』の料理担当である四葉五月と一緒に居る事が多い。おそらく彼女も超達と一緒であろう。
「エヴァちゃんと茶々丸さんは寮生じゃないとして…」
「問題はのどかだねぇ〜♪」
「ラブ臭がするわねっ!」
やはり、年頃の少女達の話題は恋愛話である。
アスナの方が乗って来ないため、美砂達もそちらの話題に食い付いた。
この中にネギが魔法使いである事を知っている者は大勢いるが、のどかがネギの『魔法使いの従者(ミニステル・マギ)』になった事を知る者はそう多くはない。
引っ込み思案である彼女がこうも積極的にネギの側に居られるのは、ネギの従者であると言う所謂『大義名分』があるからなのだが、その事を知らない者達から見れば、やはり「のどかが本気になった」と見えるのだろう。
「私が思うに、二人はお似合いだと思うのよね〜♪」
ネギが魔法使いである事を知り、のどかがネギの従者となった事を知りながらなお皆を煽っているのは、他ならぬハルナである。そのせいか、既に二人は交際していると考える者達も存在する。
のどかの心情を考えれば、彼女が従者となった事で勇気を出す事は確かなので、あながち嘘とは言えない。
何より、ネギとのどかの関係について皆を煽る事により、彼女達の中ではそれが既成事実のようになっていく。結果として皆が二人の仲を祝福し、見守るようになるのだ。
これはハルナなりに考えた、親友のどかへと贈る彼女流の援護射撃であった。
一方、夕映は一人離れたところでハルナ達の様子を眺めていた。
全面的にのどかを応援する立場にある夕映としては、二人の仲をからかう様にして煽る事などしたくない。しかし、ハルナの考えも理解できてしまう。
「…アホばっかです」
ハルナに同調はしないが積極的に止める気にもなれない。
「大変だな、お前も」
「放っといてください」
気が付けば、隣には千雨が居る。彼女も騒いでいるハルナ達の輪から離れてきたのだろう。
それぞれ理由は異なるが、この騒ぎにあまり良い顔をしない二人。彼女達は揃って大きな溜め息をつくのだった。
ちなみに、この時皆に思い出してもらえなかった少女、春日美空であるが、彼女は魔法生徒として、今回の騒動への対応に追われているため、寮には戻って来ていない。
今頃は街に潜むパイパーとコートの男、ヘルマンの捜索に駆り出されている事だろう。
「ククク、のんきなもんだゼ」
「私達のステルスは完璧ですぅ。余程の達人じゃないと気付けませんヨ」
その頃、すらむぃとあめ子の二体も大浴場に辿り着いていた。
水溜りのように身体を変化させて、扉の隙間から中に入り込む。元々水だらけの場所なので、こうなってしまうと見た目ではどこにすらむぃ達が居るかは分からない。
「…結構多いですねぇ」
アスナのクラスメイトだけでざっと十人以上居る。ここにいる本来のターゲットはアスナ一人なのだが、それだけでは面白くない。せっかくこれだけ獲物がいるのだ。少しは遊んでいかないと損である。
「とりあえず、半分こでいかがデス?」
「いいゼ。それじゃ、始めるとするかっ!」
彼女等は人を捕らえるのに適した能力を持っているため、人数が多くとも何とかする自信がある。
考えた末にすらむぃとあめ子は、欲張ってここに居る全員を人質として捕まえる事にした。
二体は浴槽の中に潜り込み――そして、その手足を、身体を、際限なく伸ばしていく。
「ッ!?」
頭を洗っていたアスナが、シャンプーをシャワーで洗い流している最中に不意に顔を上げる。
「アスナ、どうかしたかー?」
「いや、何かみょーな気配がしたような、しないような…」
隣に座っていた風香が声を掛けてくるがアスナは戸惑った様子で言葉を濁すに留める。
おそらく霊感のようなものなのだろうが、それはあやふやな勘のようなもので、まだ自分自身でそれが何であるかが理解できないのかも知れない。
「…って痛っ! シャンプーが目にっ!?」
そして、シャンプーが目に入ってしまい、それどころではなくなってしまう。
「シャンプー中に顔上げたらそうなるです…」
更に風香の向こう隣に座る史伽は呆れた様子であった。
浴槽の中で真っ先に異変に気付いたのは、静かに湯に浸かっていた夕映と千雨。
「ん、なんか湯がぬるぬるしないか?」
「言われてみれば、少し手にまとわり付くような…」
身体に触れる湯が粘るように感じる。千雨はすぐに立ち上がって浴槽から抜け出し、夕映はぐるぐると湯船の中をかき回してみるが―――
「…ッ!?」
―――その時、夕映はぐっと自分の腕を掴む何かの力を感じた。
慌てて腕を引き抜こうとするが、その力は相当強く腕を動かす事ができない。
「おい! なんか、湯船が変だっ!」
夕映の異変を感じた千雨はすぐさま彼女の腕を掴んで彼女を湯船の外に引っ張り上げようとするが、湯船の湯そのものがコンクリートか何かになったかのように、夕映の下半身を固め、掴んで離さない。
「神楽坂! 古!」
慌てて辺りを見回し、アスナと古菲が湯船の外に居る事に気付いた千雨は慌てて彼女達を呼んだ。
シャンプーの泡を洗い流したアスナは、その声に気付くとタオルを身体に巻いて立ち上がる。古菲もそれに続き、風香と史伽もそれに倣った。
「どしたアル?」
「綾瀬のヤツが抜けねぇ!」
「な、何かに身体を掴まれているみたいです!」
「ええーっ!?」
すぐさま駆け寄り、千雨にアスナ、古菲も加わり三人掛かりで夕映を引っ張り上げようとするが、それでも彼女の身体は動かなかった。
風香と史伽が浴槽の縁から声を張り上げてハルナ達に呼び掛け、彼女達も異変に気付いて湯船から出るために動き出した。こちらは動くのに何の問題もないようだ。縁の近くに居た亜子などは、既に浴槽から上がっている。
「う、腕が抜けてしまいそうです…!」
「ム…ならば、こっちからアル」
古菲は湯船に腕を突っ込み、足から抱え上げて夕映を引き上げようとするが、そこで千雨、夕映と同じように湯に妙な粘り気がある事に気付く。なるほど、これは確かに変だ。
この時、古菲は益体も無い事をふと考えてしまった。もし、仮にこの『湯』が敵だとして、自分が殴ったところで効果はあるだろうかと。『湯』に手を突っ込んだ時の手応えは、横島との修行中に殴った簡易式神よりもなおあやふやなものであった。つまり、拳は効かない。
では、拳でなくてはどうだろうか。
「アスナ…私が湯を吹き飛ばすと同時に夕映を引っ張り上げるアル」
古菲は自信有り気にニンマリと笑みを浮かべる。その笑みに何か考えがあるのだろうとアスナがコクリと頷くと。古菲は浴槽の縁にしゃがみ込んで片腕を湯に突っ込み、グッと力を入れてその指
を広げる。
腕に何かがまとわり付いてくる感触。しかし、湯の中には何も見えない。そこに居るのは当然湯の中に紛れ込んだすらむぃとあめ子なのだが、人間の目では何も見えない状態になっていた。
古菲の腕を掴んでいるのはあめ子。夕映を掴んでいるのはすらむぃで、このまま身体を広げて二人だけでなく引き上げようとしているアスナ達ごと捕らえようと考えている。後は水を使った『扉(ゲート)』の魔法でヘルマンの下に送ってしまえばいい。簡単な事だ。今にも身体を広げてアスナ達を包み込もうとしたその瞬間、ただの一般人だと思っていた古菲から予想外の反撃がやって来た。
「哈ァッ!」
発勁だ。流石のすらむぃ達もこれにはたまらず押し退けられるように弾き飛ばされてしまう。
「よしっ、今よ!」
「分かった!」
夕映の周囲から湯がなくなった隙を狙ってアスナ達が一気に夕映を引き上げた。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
「ハァ、ハァ…み、皆は?」
浴槽の皆の方に視線を向けたアスナは、そこで目を見張った。
なんと、湯船が巨大なドーム状になり、中に残っていた少女達を取り込んでしまっているのだ。
「皆っ!?」
「クッ…!」
真っ先に古菲が動き、再びドーム状の湯の中に手を突っ込もうとするが、今度は手が中に入らない。一瞬驚いた表情をした古菲だったが、すぐに気を取り直して表面に発勁を放つ。しかし、ドーム状の湯はビクともせず、それどころか古菲が手を当てているすぐ上の部分から湯が子供の拳のような形となって彼女に襲い掛かった。
「調子乗ってんじゃねーゾっ!」
古菲の目の前で湯から生えたすらむぃの上半身が、剣呑な笑みを浮かべている。流石の古菲もぎょっと目を丸くして動きを止め、その隙を狙ったすらむぃアッパーが炸裂し、思わずのけぞってしまう。
「すらむぃ、このまま跳ぶデスヨ!」
ドームの頂上からあめ子の上半身が生えた。このままドームの中の少女達と共に水の『扉』の魔法で跳ぶ気だ。
アスナも殴りかかるが、ドームはビクともしない。それどころか、古菲とはかなり離れた位置で攻撃していると言うのに、アスナの目の前からすらむぃの足が生えてきて、彼女の腹に渾身の力を込めた蹴りを喰らわせる。
「カハッ!」
「アバヨっ!」
「他の3年A組の皆さ〜ん。後で攫いに行きますから、逃げないでくださいねぇ」
咽たアスナが膝を突いて崩れ落ちている隙に、すらむぃ達は『扉』の魔法で消え去ってしまった。
後に残されたのはアスナを始めとする数人の少女達。間近に居た千雨が近付いて来てアスナを助け起す。顎を思い切り殴られた古菲の方には浴槽から抜け出せていた保険委員の亜子が向かっている。
現在この場に残っているのは、アスナ、古菲、千雨、夕映、それに風香と史伽、亜子の七人だ。他の者は皆攫われてしまったらしい。
ここで別の湯舟に居た他の寮生達も騒ぎを聞いて駆け付けて来たが、この時既に騒ぎを起こした張本人であるすらむぃ達の姿は無い。しかし、一番大きな浴槽から湯が一滴残らず消え去っていたため、皆揃って呆然とした表情になっている。
この場に残っていた面々に何事かと問い掛けるが、残念ながら、それに答えられる者はいなかった。
「ったく、何なんだよ3年A組の皆さんって…まさか、また来るんじゃねぇだろうな?」
「よく、分かんない…」
千雨の言う通り、敵は確かに「3年A組の皆さん」と言った。しかし、この大浴場にクラスメイトの全員が集まっていたわけではない。木乃香のように部屋に居る者、まだ寮に戻ってない者も何人か居る。
「風香、史伽! すぐに朝倉達探して来て!」
「わ、分かった!」
「はいです!」
二人も、朝倉達も狙われる可能性がある事に気付いたようだ。
身体を拭くのもそこそこに着替えを済ませると、二人揃って浴場から飛び出して行く。
「長谷川さんも着替えたら亜子達を連れて私の部屋に」
「…分かった。事情は後で説明してくれよ」
出来る事なら巻き込まれたくない千雨だったが、修学旅行の時の例もあるので不承不承頷いた。
そしてアスナは殴られた腹の痛みを堪えて、身体にバスタオルを巻いたまま着替えもせずに部屋へと急ぐ。
バスタオル姿で走るアスナを見て他の寮生達が何事かと振り返るが、それを気にしている余裕は無い。そのまま全力疾走で部屋まで辿り着くと大慌てで蹴破るように扉を開ける。
そして中に入ると、そこにはのほほんとした笑みを浮かべた木乃香が立っていた。
「おかえり〜、アスナ」
ただし、一糸纏わぬ姿で。
普通なら驚くところだが、今のアスナは違った。つい先程大浴場で湯から生える少女の上半身や手足を見てきたところだ。目の前の木乃香がそれに近いものであることぐらいは予測できる。
「…すらむぃ達と戦ったようですネ。これぐらいでは驚きませんカ」
木乃香の姿で喋っているのだが、その口から紡がれるのはもっと高い、幼い子供の声だ。
「神鳴流剣士は、これで無力化できたのですガ…」
その言葉と同時に木乃香の身体が頭から溶けて崩れていく。
中から姿を現したのは、木乃香よりも長い髪を持った一人の少女、ぷりんであった。
「あんた…大浴場に現れたヤツの仲間ね! 木乃香達をどこにやったの!?」
「部屋に居た三人は預からせて頂きまシタ…」
ここでぷりんは天井を仰いでピタリとその動きを止める。
アスナは何事かと警戒するが、そのまま考えを巡らせていたぷりんは、やがて何をするでもなく、再びアスナへと視線を向けた。
「詳しいことはネギ・スプリングフィールドに聞いて下さい。私は…説明するのが面倒なのデ…」
どうやら、如何に簡潔に状況を説明するか考えを纏めていたようだ。
しかも、結局は面倒臭くなって丸投げしてしまっている。
「ネギ? やっぱりあんた、ネギと関係あるの!?」
「………では、サヨウナラ」
アスナに問い掛けに答えることなく、ぷりんの身体は崩れて水溜りとなり、そしてそのまま床に溶け込むように消えてしまう。後に残されたのは、アスナと机の上の入学案内のみであった。
どうして良いか分からずにアスナが呆然としていると、そこに和美が風香を伴って駆け込んできた。彼女達の部屋にすらむぃ達は現れなかったようだ。
「アスナ! まさか、木乃香達が…」
「あ、朝倉…どうしよう! 皆攫われちゃったっ!」
「落ち着けっ! あんたはまず着替えな!」
言われてアスナは自分がバスタオル一枚しか身に纏っていない事に気付き、慌てて着替え始める。
その間にも、和美は情報を集めるために動き出していた。
「まだ寮に戻ってきてないのは…超一味に千鶴達だね。風香、千鶴か夏美に電話して安否確認して!」
「オッケー!」
それぞれ携帯を取り出して、まだ寮に戻ってきていない者の安否を確認し始める。
風香はまず千鶴に電話を掛けるが繋がらず、不審そうな顔をして今度は夏美に電話を掛けた。こちらはちゃんと繋がったようで、そこで風香は、夏美が横島と一緒におり、現在エヴァの家に移動中である事を知る。
「アスナー、着替えたらネギ先生に電話してみてー!」
「わ、分かったわ」
この朝倉和美と言う少女、こう言う時には非常に頼りになる。
テキパキと指示を飛ばし、大浴場の方から千雨達が、それと部屋の方から桜子とさよがやって来ると、着替え中のアスナに代わって率先して出迎えに行く。
「夏美達は、ヨコシマと一緒にいるみたいだよ」
「超一味も大丈夫みたい、ザジも一緒だって。まぁ、こっちは心配しなくても大丈夫でしょ、超だし」
その言葉に鳴滝1号、2号、4号が揃ってうんうんと頷いた。修学旅行中の戦いにおいて、神通棍と霊体ボウガンを手に無数の鬼達と渡り合った超を見ているだけに、彼女がどうにかなるとは思えないのだ。
「横島さん達がエヴァちゃんとこに行ってるなら、私達も向かうべきじゃないかな?」
「なんでマクダウェルのとこに? 警察にでも駆け込んだ方がいいんじゃないか?」
和美の提案に対し、千雨が疑問の声を上げた。この場に居るメンバーの中で、唯一ネギが魔法使いである事を知らないのだから当然の反応であろう。
流石に当事者のいない状況では詳しく説明する事もできず、和美はGSの横島がそこに居るからとだけ告げて、アスナの方にネギと連絡は取れたかと話を振る。
しかし、アスナは焦った表情で電話を手にしているだけで、返事がない。
どうやら、ネギが電話に出ないようだ。
その頃、ネギはのどか、カモを連れて女子寮の目の前に居た。
だが、そこから一歩として進む事ができない。何故なら、彼の前には黒いコートを羽織り帽子を目深に被った男、ヘルマンが立っている。その異様な雰囲気、只者ではない事が一目で理解できる。
「久しぶりだねぇ、ネギ君」
「ネ、ネギ先生、お知り合い…ですか?」
温和そうな笑みを浮かべるヘルマンだが、その剣呑な雰囲気が薄れる事は無い。
のどかは明らかに日本人ではない彼の容貌に、ネギがウェールズに住んでいた頃の友人ではないかと考えたようだが、彼の表情を見る事で、それが間違いである事を悟った。
「ハッハッハッ、覚えていないかい?」
「………誰ですか、貴方は」
手に一輪のバラを持ってヘルマンは笑うが、ネギは厳しい表情を崩さずに杖を構えた。カモも戦いの気配を感じて邪魔にならないようにネギの肩からのどかの肩へと飛び移る。
「フム…そう言えば、あの時は名乗る暇も無かったかな。イヤ、これは失礼した」
ネギの態度に、顎を手を当てて考えたヘルマンは、自分が過去に彼と出会った際に名乗っていなかった事に気付いた。
素直にその非礼を詫びて、被っていた帽子を取り、改めて自己紹介を始める。
「…ッ!?」
ゾワッとネギの全身の毛が逆立った。
帽子を取ったヘルマンの顔は、温和な笑みを浮かべた老紳士のそれではなかったのだ。
長く捻じ曲がった二本の角に、仮面を思わせる硬質な卵の殻のような漆黒の顔。瞳がないはずなのに、両目の部分は淡い光を放っている。
「かれこれ、六年振り…ぐらいだったかな?」
「ま、まさか、貴方は…」
「ご名答。君の仇だよ、ネギ君」
そう、そこに立っていたのは、六年前にネギの故郷の村を襲撃し、滅ぼした魔族の一人。しかも、ネギの命の恩人である老魔法使いのスタンを、ネギの目の前で石に変えてしまった張本人だ。
「ハッハッハッ、良い表情だ。喜んでくれたようだね、ネギ君。私も嬉しいよ」
「………」
ギリッと無言で歯を食いしばるネギ。エヴァから教わった魔法で拳に魔法力を込めて殴りかかろうとするが、その拳はあっさりとヘルマンに片手で受け止められてしまった。
その瞬間に弾ける魔力の炸裂音。相当の威力が出ていたらしく、ヘルマンは少し表情を歪める。
「ホゥ、予想以上に成長していたようだ…」
「クソッ!」
余裕綽々の態度にカチンと来たネギは、休む事なく蹴りも交えた連続攻撃を繰り出すが、やはり、全ての攻撃をヘルマンに止められてしまう。
文字通り大人と子供、リーチの差もあるが、真正面から殴り掛かるだけでは、勝ち目は無さそうだ。
「兄貴ッ!」
「…だが、戦い方が少々素直過ぎるな。実戦経験不足と言ったところか」
カモは声を荒げてネギを止めようとするが、それよりも早くへルマンが反撃に移った。
魔力を込めた拳でネギの腹に一撃を加えて吹き飛ばす。
その一撃で吹き飛ばされたネギはのどかの足元まで飛ばされ、咳込むネギをのどかが助け起こした。
その時、ヘルマンの足元にある水溜りが盛り上がり、そこからすらむぃの声が聞こえてきた。
「伯爵〜。神楽坂アスナは無理だったけど、他のクラスメイト何人が捕まえて来たゼ〜」
「そうか、よくやってくれた」
すらむぃ達からの報告を聞いたヘルマンは、笑みを浮かべて構えを解き、ネギに向き直る。
剣呑な雰囲気も少しは薄れており、これ以上、この場で戦いを続ける気はない様子だ。
「ネギ君、聞こえたかね?」
「ま、まさか、クラスの皆さんを…」
「『人質の命が惜しければ』…と、人間達は言うんだったかな? まぁ、そう言う事だ。返して欲しくば、準備を整えて本気で私と戦い、そして奪い返してみたまえ」
「な、何故、そんな事を…」
ヘルマンが何故わざわざそんな事をするのか理解できないネギが問い掛けるが、ヘルマンはその問いには答えず微笑むばかり。
「…まぁ、私の楽しみ、とだけ言っておこうか。時間と場所は後程伝えさせるので、せいぜい準備を整えたまえ。私への憎しみを募らせながらね」
それだけ言うと、ヘルマンは踝を返して立ち去ってしまった。
一矢報いる事も出来なかったネギは、口惜しげに拳を地面に叩き付ける。
「全然、歯が立たなかった…」
「ネギ先生…」
「兄貴…」
のどかもカモも、それ以上掛ける言葉が見つからない。
打ちひしがれるネギの身体に、容赦なく雨が打ち付けられる。
麻帆良学園都市を覆う暗雲は、まだまだ晴れそうにはなかった。
つづく
あとがき
すらむぃ、あめ子、ぷりんの三体が水を利用した『扉(ゲート)』の魔法が使えると言うのは、『見習GSアスナ』独自の設定です。
原作の方で彼女達がどうやって捕らえた人間を運んでいるのかは分かりませんので、ここでは『扉』の魔法であると設定いたしました。ご了承下さい。
今回はネギの扱いが少々アレではありますが、これも彼を成長させるための前準備と言う事でご勘弁下さい。
ネギが反撃のためにどう動くかは、次回の話をお待ち下さい。
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