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 狼の如く、狐の如く 2


 『狂犬』と呼ばれる連続殺人鬼と一戦交えた翌日。そろそろ昼になろうかという頃になって、真木はようやくオカルトGメン事務所に現れた。コーヒーカップと資料の束を手にのっそりと自分のデスクに戻り、渋い顔でどっかり座ると、眠気覚ましにカップの中身を一気に呷った。
 昨夜の未明に事務局に戻った彼は、すぐさま『狂犬』が名乗っていた名前『犬飼ポチ』について日本支部へと問い合わせた。その後治療をしてもらって仮眠を取っている間に送られてきた資料が、現在彼の手にある資料である。正直なところ睡眠時間はまだ足りないが、今はそれどころではない。真木は眠気を振り払って資料に目を通し始めた。一刻の猶予も無い。日が暮れるまでに『狂犬』犬飼ポチへの対抗手段を見つけなければ、また犠牲者が出てしまうのだから。

 『狂犬』――最近巷を騒がせている連続殺人鬼だ。現場から犬のような体毛が発見された事からそう呼ばれている。
 犬に襲われたにしては被害者の傷口が非常に鋭利で深く、また体毛も犬のサイズではない事から魔物でもいるのではないかと言われていたが、なんて事はない。真木は日本支部から送られてきた資料を見て納得した。犬飼ポチを名乗る男は人狼族、所謂ウェアウルフなのだ。犬に似て、かつ犬のサイズではないのは当然である。
 手にした資料には、かつて犬飼ポチが日本で起こした連続辻斬り事件について記されていた。被害者は十人、例外なく鋭利な刃物で一刀の下に斬り伏せられている。資料によると、人体の斬り口の鋭さに対し、衣類のそれが鈍いのが霊刀による傷の特徴だとある。この点については鑑識の方からも指摘されていたが、理由までは分かっていなかった。こればかりは仕方があるまい。ここコメリカでは、現在に製法が伝わっていない古の霊刀、神剣に関する話を聞く事がほとんどないのだから。
「妖刀『八房』、か……」
 資料によるとかつて犬神族――人狼族の天才鍛冶師が生み出した刀らしいが、問題は謂われよりもその性能だ。
 真木は通常の霊能力者とは異なり、炭素単結晶繊維を精製し、自分の髪からそれを伸ばして操る能力を持っている。逆に霊力や除霊具の扱いは不得手としているが、悪霊よりもオカルトをかじった人間が事件を起こす事が多いコメリカでは、攻撃、防御、対象の捕縛と幅広く活躍する彼の能力は重宝されていた。彼がコメリカのオカルトGメンに所属しているのも、その能力がコメリカでこそ求められたからである。言うなれば、彼は対オカルト犯罪者のプロフェッショナルなのだ。
 ところが、『八房』の前に炭素単結晶繊維は容易く斬り裂かれてしまった。相手が人間ではなく人狼族であった事はこの際関係が無い。物理的な肉体を持たぬ悪霊の類ではなく、現実に存在するオカルト犯罪者相手に敗北してしまった事が、彼のプライドを傷付けていた。
 しかも、『八房』は一振りだけで八つの斬撃を飛ばしてくるのだから、反則にも限度と言うものがある。
「……チッ!」
「荒れてるな、シロー」
 真木が感情任せに飲み干したコーヒーカップをデスクに叩き付けたところで、鑑定医の男が声を掛けてきた。「シロー」と言うのは真木の名前である。彼は仲間内からはそう呼ばれていた。
 真木に衣類の斬り口の鈍さについて伝えたのも彼だ。それだけに進み具合が気になっていたのだろう。
「『狂犬』には逃げられたのかい」
「……見逃された、と言った方が正確ですね。これが犬飼――『狂犬』に関する資料です」
 鑑定医は真木から渡された資料に目を通し、感嘆の声を上げた。
「ほう、『狂犬』の正体はサムライなのか!」
「日本人としては認めたくないところですね。せいぜい辻斬りでしょう」
「ツジ……?」
「要するに通り魔の古い呼び方です」
「結局通り魔かい」
「『ただの』とは言えません。俺の髪を容易く斬る相手です」
 その一言に鑑定医は息を呑んだ。真木の精製する炭素繊維の強度については、彼自身もテストした事があるのでよく分かっている。彼がこうしてここに来たのも、その話を同僚から伝え聞いてもにわかに信じられずに、直接本人に確かめに来たためである。
「サムライソードとは、それほどの物なのか?」
「妖刀『八房』に関してはこちらに」
 鑑定医は訝しげな顔をして受け取った資料に目を通すが、読み進めるにつれてその表情が険しくなってきた。当然の反応であろう。炭素繊維を容易く斬り裂くだけでも相当なものだと言うのに、犬飼ポチはそれを一振りで八度斬り付け、斬れば斬るほど霊力を吸収して強くなるのだから。
「つまり、奴はシローを斬って更に強くなったと?」
「おそらくは。実際、斬られた際に脱力感を覚えました」
「しかも、この資料によると、このまま斬り続けていけば、いずれ『狼王』が復活するとあるぞ。ニューヨークの街を巨大な狼が闊歩するのか? いつから俺達は映画の登場人物になったんだ?」
「映画ならハッピーエンドで終わってくれますよ。残念ながら、これは現実です」
 日本支部から送られてきた資料の中で、最も注目すべきは『狼王』に関する記述であろう。
 これが犬飼ポチの目的なのだろうか。霊力を奪うため、そう考えれば今までの無差別に行われてきた連続通り魔の動機も理解出来ると言うものだ。
 しかし、どこか違和感がある。
「霊力を奪う事が目的ならば、無差別の通り魔はなくなる……か?」
「代わりに狙われるのはオカルトGメンか?」
 真木は当時の令子達と同じ結論に辿り着いた。一般人を百人斬るよりも、霊能力者を一人斬った方が効率が良い。それを狙っているのだとすれば、昨夜犬飼ポチが真木をあえて見逃した事についても辻褄が合う。
「クッ、足りない。まだ情報が足りない……ッ!」
 確かに辻褄が合うのだが、真木はどうしても最後に残った僅かな違和感を拭い去る事が出来なかった。
 何かがおかしい。そう彼の直感が訴えているのだが、それが何であるかを導き出すための情報が欠けている。
「おい、あんま考え過ぎるなよ。ゾンビ野郎が何考えてるかなんざ、後から考えりゃいいんだ。シロー、お前が今やるべき事は、次の犠牲者が出るのを防ぐ事だろう」
「はい、分かっています……ッ!」
 その瞬間、真木の感じていた違和感がはっきりと形になった。
 「ゾンビ野郎」それが最後のピース――そう、犬飼ポチは一度、日本で『狼王』の復活を目論み、成功させ、そして倒されているのだ。
 その時の記憶があると仮定した場合、犬飼ポチの目的が霊力を集める事にあるのならば、最初から霊能力者ばかりを狙っているのではないだろうか。そちらの方が効率が良い事は分かっているのだから。
 やはり動機は別にあるのか。それとも、以前の記憶が無いのか。
 無いとすれば、霊能力者を斬った方が効率が良い事を知らないのだから一般人を襲ったのも理解出来る。逆に有るとすれば、何故一般人を襲ったのかが分からなくなる。
 また、以前の犬飼ポチと同じ記憶が有るとすれば、再び『狼王』復活を目論んでもおかしくはない。逆に無いとすれば、何故辻斬りを続けているのかが分からなくなってしまう。

 そもそも、現在巷を騒がせているニューヨークで復活した『狂犬』犬飼ポチと、日本で打ち倒された『狼王』犬飼ポチは本当に同一人物なのか。

 奇しくも真木は、犬飼ポチの存在について、犬飼ポチ自身も抱く同じ疑問に辿り着いていた。

「おい、また難しく考え過ぎているんじゃないか?」
「ハッ! あ、いや、申し訳ありません」
「まずは、奴を止める事だけ考えるんだ。こいつを見てみろ、ウェアウルフは満月に近付くに連れて力を増すと言うじゃないか」
「昨夜は確か――あと三日と言ったところですか」
「新月に近付いていくなら、まだマシなんだがなぁ」
 真木は昨夜見た月を思い出してみた。あれから新月に近付いて行くのならばまだ救いはあるが、生憎と月齢はこれから満月へと近付いて行く。つまり、犬飼ポチは日を追うごとに更に強くなっていくと言う事だ。
「この資料によると、満月の晩に『狼王』は復活するとあるじゃないか」
「日本では人狼族の守護女神であるアルテミスを召喚して『狼王』と戦ったとありますが……」
 そこで真木は口ごもった。令子の名は伏せられていたが、守護女神アルテミスを召喚したのは民間GSであったと資料には記されている。確認を取ってみたところ、その戦いに日本のオカルトGメンは関わっていないそうだ。そのため詳細は分からないが、召喚の儀式は数日掛けて準備をしなければならないそうだ。
 しかも、人狼族の守護女神であるアルテミスは、人狼族がいなければ召喚する事が出来ない。その上、極度の男嫌いであるらしく、女性でなければ力を貸してもらえないそうだ。ただでさえ人間とは距離を取り、異空間に隠れ住んでいる人狼族。その中でも希少だとされている女性の人狼族をどうやって探し出せと言うのか。この方法で犬飼ポチを倒すのは、ほぼ不可能であると考えて良いだろう。
「仮に人狼族の女性を見つける事が出来たとしても、それだけの儀式を行える術者がいるかどうか、だな」
「それは……」
 実のところ、この方法は日本だからこそ出来たものと言える。オカルトの中でも、特にこのような高度な儀式についてはその国の持つ長い歴史と伝統が物を言うのだ。日本には、それこそ卑弥呼に始まり、陰陽寮を経て受け継がれてきたオカルトの歴史が存在するが、コメリカと言う国にはそれがない。オカルトを研究する大学等に政府が協力を要請し、色々と実験を行ったりもしてはいるのだが、ことオカルトに関しては、大国の地位も危ぶまれていると言うのが現状であった。
「日本から呼ぶにしても、その後の準備を考えると時間が足りんだろうな」
「とにかく、今は満月になる前にヤツを倒す事を考えましょう」
 そうは言っても真木の炭素繊維を容易く斬り裂く相手に、まともに勝負を挑むのは無謀である。何か手を考えなければならない。
 罠に嵌めるか、自分達を強くするか、相手を弱くするか。いつの間にか真木の周囲には同僚達が集まり、資料を手にどうするべきかと頭を悩ませていた。無差別連続殺人鬼『狂犬』は、いまやオカルトGメンの権威に懸けて倒さねばならない相手なのだ。
「満月の方が強くなる……確か、月は濃密な魔力の塊だったな」
「はい、常に魔力が放射され、地上のモンスターはその影響を受けていると言われています」
「満月になると強くなるって事は、新月になると弱くなるのか?」
「可能性はあるんじゃないかな?」
「おや、良いところに目を付けましたね」
 突然背後から聞こえてきた声に、皆が一斉に振り返った。
 そこに立っていたのは、真木よりも少し背が高いスマートな男。金と言うよりも白に近いプラチナブロンドの髪をオールバックに整えており、白いスーツに身を包んでいる。薄い色の付いた眼鏡のレンズが彼を染める唯一の色と言っても良かった。黒い髪をラフに伸ばし、黒のスーツに身を包む真木とは実に対照的である。顎髭のある真木に対し、男は髭の無い細面であり、纏う雰囲気も正反対だ。
 その男は『狂犬』の事件を解決するためにオカルトGメンに出向して来ていた。どの組織から出向して来ているかは真木達も聞かされておらず、「メッシャー」と名乗ってはいるが、それが本当の名前かどうかは分からないと言うのが正直なところだ。
 その周囲全てを見下しているようなエリート然とした態度に反感を抱き、真木も同僚達もあまり彼に対しては協力的ではない。しかし、メッシャーもそれを気にした様子はなく、ただ時折現れては捜査の進展を尋ねてくるだけであった。
「メッシャー、良いところとは?」
「月の魔力ですよ。ウェアウルフの一族にとって月は力の源であると同時に弱点でもあります。これを使うと良いでしょう」
 そう言ってメッシャーが出したのは手のひらの上に乗りそうな小さな機械であった。
「それは一体?」
「そうですね……一時的に新月の状態を作り出すものと言っておきましょう。正確には月の魔力を遮断する結界を張るための物ですが」
「新月の状態を作る? そんな事が出来るのですか?」
「出来ますよ。これを中心に半径100メートルほどですから、『狂犬』の前に出て使わねばいけませんが」
 自信有り気な顔で言うメッシャー、冗談を言っているようには見えない。本当に新月の状態を作り出せると言うのであれば、一時的にでも犬飼ポチの力を弱められると言う事だ。昨夜は遅れを取ったが、あと数日で満月になると言う事は犬飼ポチの力も上がっていたはず。新月の状態ならば、真木の能力で対抗出来るかも知れない。
 皆の視線が真木に集まった。メッシャーの差し出す機械、犬飼ポチの前に出て使わねばならないのであれば、それはおのずと最も防御力の高い真木の役目となる。
 メッシャーも無言で真木の答えを待ったが、彼の答えは考えるまでもなかった。
「やりましょう!」
 現在考えられる犬飼ポチへの対抗手段はこれしかないのだ。それに、これを使うならば真木自身が犬飼ポチの前に出る事になる。彼の中には犬飼ポチへの借りを返してやりたいと言う思いもがあった事も否定出来ない。
「よろしい。では、シローを中心に狙撃班を配置しましょう。ウェアウルフは鼻が利きます。きっと君の匂いも覚えているでしょうから、囮になってもらいますよ」
「……了解!」
 自分が囮になる事に異論は無かった。むしろ、望むところだ。
「しかし、都合良く現れてくれるでしょうか?」
「『狂犬』は円を描くように動いていますからね。おおよその位置は見当が付きますよ」
 鑑定医の問い掛けに、メッシャーは薄ら笑いを浮かべて答えた。動物風情がと犬飼ポチを見下しているのが透けて見えるようである。
 真木は、いかに相手が連続殺人鬼とは言え、その態度はどうかと思ったが、一言文句を言ったところで十倍のいやみが返ってきそうだったので、そのまま黙ってスルーする事にした。
 あとは夜を待つばかりだ。狙撃班については同僚達に任せておけばいいだろう。作戦の正否のカギを握る事になった真木は、瞳を閉じて心を落ち着かせ、昨夜の戦いで消耗した体力と霊力の回復に努めるのだった。


 着々と犬飼ポチ包囲の準備が進められ、やがて日が沈んだ。夜の帳が下りて、狩りの時間が訪れる頃、時差のある日本では朝から犬塚シロが再び横島家を訪れていた。今日は一人だけではなくひのめも連れている。
「あんたは朝っぱらから……今日も追い出されたの?」
「違うでござるよっ!」
 朝と言っても愛子や小鳩は既に登校している時間なのだが、まだ二度寝を楽しんでいたタマモは彼女の大声に起こされてしまい不機嫌そうであった。腹いせに昨日と同じように令子に五月蠅いと追い出されたのかと問い掛けてみると、シロは吠えるようにそれを否定する。
「今日は書類の仕事があるとかで忙しそうだったでござるよ。だから、外で遊んで来いと」
「どっちにしろ追い出された事には変わりないんじゃない」
 きっと、令子にしてみれば猫の手も借りたい状況なのだろうが、ことデスクワークに関してはシロでは猫の手にも及ばないと言う事だろう。それならば一人で集中した方が良いと、シロを追い出したに違いない。タマモはそう推理した。
「んで、そっちはどうしたのよ?」
 そう言ってタマモが指差したのはひのめ。だいたい予想は付くのだが、一縷の望みを託して問い掛けてみた。
「美神どのが忙しいから、子守りを任されたでござる」
「念のために聞いとくけど、美智恵は?」
「たいちょーどのは出張だとか」
「あっ、そう……」
 オカルトGメン日本支部はコメリカと違って人手不足であり、東京にある美智恵率いる実働部隊だけで日本全土をカバーしているのが現状であった。そのため、地方で霊障が起きて出動要請を受ければ、美智恵、西条のどちらかがそれぞれ部隊を率いて出動しなければならない。
 これまでは基本的に地方に赴くのは西条の役目であったが、現在はGS資格を取得したばかりの隊員、岸田を新たな部隊長候補として育てるために美智恵自身が岸田を連れて地方へと出動していた。任務をしっかりと遂行する事と後進を育てる事。どちらか片方だけならばともかく、両方を同時に進めるとなると、まだ西条には任せられないと判断したのであろう。

 美神令子除霊事務所にはもう一人の同居人、おキヌがいるが、彼女は今頃学校だ。となると、赤ん坊のひのめの面倒を見るのはシロしかいない。
「もしかして、ここにでも遊びに行けとか言ってなかった?」
「よく分かったでござるな」
「………」
 しかし、令子としてもシロ一人に任せるのはいささか不安だったのだろう。
 美智恵が向かいのオカルトGメンに居るのであれば、いざと言う時に助けを求める事も出来るが、彼女も出張となればそうもいかない。そこで令子が考えたのは、シロとひのめを横島の家に行かせる事だった。何せこの家には愛子と小鳩を抜きにして考えても、家事万能のマリアが居る。
「だぁー、だぁー」
「おや、ひのめどのはタマモに甘えたいみたいでござるな」
「うっ……」
 何より、ひのめはタマモに懐いている。シロは腕の中のひのめがタマモに気付いて手を伸ばしているのに気付くと、ニッと笑ってひのめをタマモへと差し出した。タマモは一瞬後ずさるが、シロはニコニコと笑顔のままで引っ込めようとはしないため、仕方なくひのめを受け取る。するとひのめは嬉しそうにタマモの身体にひしっと抱き着いて、よじ登ろうとし始めた。更に長い髪の房を掴もうとするため、タマモは巧みにそれをあしらう。
「髪を掴むんじゃないっての。ったく、こんな時に限ってテレサはハニワ兵連れて買い物に行ってるし」
「頑張るでござるよ〜♪」
「って、コラ! あんたまで行ってどうすんのよ!」
「そうは言っても、今日はさんぽがまだなんでござるよ。ひのめどのを連れては思い切り走れないし」
「当たり前でしょ! それでひのめがどーにかなっちゃったらどうするつもりよ!?」
「だから、ここに来るまでは拙者も自重したではござらんか。では、ちょっと一周走ってくるでござるよ〜♪」
 そう言うと、シロはひのめの事はタマモに任せ、自分は日課の散歩に出掛けてしまった。ひのめを連れてはあまりスピードも出せないため、まだ走り足りなかったのだろう。なんとか引き留めようとするが、シロはそのまま勢い良く走り去ってしまった。
 一周と言っていたが、どこを一周するつもりなのだろうか。まさか、この家を一周ではあるまい。彼女が満足するには短すぎる。町内を一周と言うのが妥当なところのような気がするが、シロの場合は、放っておくと都内を一周しかねない。
 タマモは追い掛けようとしたが、あの元気が有り余った状態で騒がれても困ると考え直し、仕方なくその場に腰を下ろす。
 この時間では、家に残っているマリアも朝食の片付けや掃除で忙しいだろう。下手に助けを求めれば、タマモもそちらを手伝わなければならなくなる可能性が高い。それだけは御免だ。だからと言って、ひのめを放置すれば、また縁側から落ちそうになるかも知れないので、結局のところタマモがひのめの面倒を見る以外の選択肢は存在しなかった。
「なんか最近、やたらにガキと縁があるような……」
 溜め息をつきつつ呟いたタマモだったが、ひのめを彼女に押しつけたシロも、なりはタマモより年上のように見えても頭の中身は子供同然である事を思い出して、更にもう一つ深い溜め息をつく。
 タマモは知らなかった。今のシロは、幼い子供だったシロが父の仇である犬飼ポチとの戦いの最中に深い傷を負い、何とかその傷を癒そうとする人狼族の生命力『超回復』と、令子、横島がヒーリングしようと送り込んだ霊力の相乗効果によって年齢以上に急成長した姿であるため、実年齢は頭の中身相応の子供である事を。
 もっとも、タマモがそれを知ったところで縁のある子供が一人増えるだけなので、知らない方が本人のためなのかも知れないが。
「……だから、髪の毛ひっぱるんじゃないって」
 がっくりと肩を落とし、朝から疲れ切ってしまったタマモには、楽しそうに彼女の髪を一房掴むひのめに対し苦笑いを浮かべるばかりで、大声を出す元気も残っていなかった。


 一方、コメリカのニューヨークでは準備を整えたオカルトGメンの面々が、いよいよ作戦開始の時刻を迎えようとしていた。
「おう、準備は終わったかい?」
 同僚の男が声を掛けてきた。彼も今回の作戦に参加はするが、狙撃班のメンバーであるため現場では別行動となる。
「ええ、昨日より重装備ですよ」
 この時、真木は可能な限りの防刃装備に身を包んでいた。どこまで効果があるかは分からないが、更にこの上から炭素繊維で守りを固める事により、犬飼ポチに対抗しようと考えている。
「シロー、よろしいですか?」
 続けてメッシャーが声を掛けてきた。彼は今まで情報の要求はしてきても、自分の手の内は見せようとせずに、常に単独で捜査を行ってきた。一緒に現場に出るのは今日が初めてとなるのだが、彼はいつも通りの白いスーツ姿のままであった。現場に出ると言っても、後方で指揮を取るだけなのかも知れない。
「何か用か、メッシャー」
「大した事ではありませんよ。これの使い方を教えておこうと思いまして」
 そう言ってメッシャーが差し出したのは、例の新月の状態を作り出すと言う装置であった。
 それは手のひらサイズの小さな物で、一見デスクの上を飾る小物のようにも見える。小さな台座の上に球体が嵌め込まれており、指で回すとカチカチと音を立てて回るようになっていた。球体の半分は黒く塗りつぶされ、もう半分は月面が描かれており、真木はそれが月齢を表している事に気付く。
「上の月を新月に合わせて台座のボタンを押して下さい。簡単でしょう?」
「確かに。ところで、これの効果時間は?」
「それは、君が気にする事ではありません」
「は?」
 予想外の返答に真木は呆気に取られた。メッシャーはその反応を面白がるように笑みを浮かべると、更に説明を続けた。
「その装置が限界を迎えるまで戦い続ける事はありませんよ。どう言う結果に終わるにせよ、決着が付いています。無論、私は君が勝つ事を願っていますがね」
 なるほどと真木は得心した。これは十分や二十分で使えなくなるようなものではないらしい。こんなに小さな装置なのに、どのような技術が使われているのだろうか。政府は大学等に様々な研究、実験を行わせているそうだが、これもその成果の一つなのかも知れない。
 となると、メッシャーはそれに関係する組織から出向してきているのだろうか。そんな真木の疑問を知ってか知らずか、メッシャーはその装置を預けると、連絡しなければならないところがありますので先に現場に行っていて下さい、と言ってどこかに行ってしまった。
「……俺がこの装置を鑑識に回すなりして調べようとしたらどうするつもりなんだろな?」
「調べても問題がないのか、それとも既に鑑識にも手を回しているか……」
「或いは、調べても分からない自信がある、か?」
 冗談混じりに言ってみた真木だったが、何となくそれが正解のような気がした。
 彼がオカルトGメンとどのような関係にあるかは分からない。個人的にはあのエリート然とした態度や、こちらに情報を回さないのは気に入らないのだが、今はその彼が用意した装置に命を預けるしかなかった。
「ま、がんばれや」
 同僚が同情した様子でポンと真木の肩を叩く。メッシャーに対する印象は皆一緒のようなものなので、彼の心中を察したのだろう。対する真木は、力ない笑みを返す事しか出来ない。
 今やるべき事は、次の犠牲者が出るのを防ぐ事。真木は鑑定医の言っていた言葉を思い出す。メッシャーに対する個人的感情などは後回しだ。今やるべき事は、犬飼ポチを止める事。手の中の装置をぐっと握って気を取り直した真木は、犬飼ポチが次に現れるであろう予測ポイントへ、同僚達と共に向かうのだった。

「……さて、彼等が『狂犬』を止めてくれれば良いのですが」
 隊員達が出払った部屋に一人残ったメッシャーは、携帯電話を取りだして、どこかに連絡を取り始めた。居丈高な態度で話しているが、どうやら誰かを呼び出そうとしているようだ。
 やがて話し終えて携帯電話を切ったメッシャーは、唇の端をニィッと吊り上げて笑みを浮かべる。
「これ以上、野犬を野放しにしているのも面白くありませんからね。そろそろご退場願いましょうか」
 その表情には、『狂犬』犬飼ポチを見下した侮蔑の感情がありありと浮かび上がっていた。



つづく




あとがき
 コスモプロセッサによる二種類の復活方法。
 ニューヨークで復活した犬飼ポチのその後。
 コメリカのオカルトGメンに関する描写や設定。
 これらは『黒い手』シリーズ独自の設定です。ご了承下さい。

 また、メッシャーは『黒い手』シリーズのオリジナルキャラクターです。

 作中にあるコメリカがオカルトの分野において大国の地位が危ぶまれていると言うのは、原作『絶対可憐チルドレン』の単行本11巻、「面影 (2)」にある賢木の「超能力競争でコメリカは大国の地位が危うくなっているからな」と言う台詞をベースに設定しています。

 作中に登場している真木ですが、これは言うまでもなく『絶対可憐チルドレン』に登場するパンドラの真木です。
 これはクロスオーバーと言うよりもゲスト出演だと解釈してください。

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